53 非番と任地
書庫にクレイグが訪れるようになって十日目。今日で終わりかなと思いながら扉を開けたジルは、驚いた。
「久し振りだな、ジル」
そこには、人好きのする笑みを浮かべた赤茶髪の男性が立っていた。
会うのは昨年の臥ノ月以来だから、半年ぶりだ。目の前にいるデリックは黒い騎士服を着ていなかった。もしやあの一件のせいで、とジルの顔は白くなった。
「デリック様、騎士服は……」
「今日は非番なんだ。本当はもっと早く来たかったんだけど」
ジルは胸を撫で下ろした。騎士を辞めたと言われたら、どう責任を取ったらいいか分からなかった。
「今日はどうしてこちらに?」
なぜ自分がここに居るとデリックは知っているのだろうか。そして用件はなんだろうかと、深緑の瞳をジルは見上げた。少しずつ背は伸びているけれど、デリックとはまだ頭一つ以上の開きがある。笑顔をみせていた騎士の顔が真剣なものへと変わり、直後頭を下げられた。
「ごめん! あの時は嬉しくて調子に乗ってた!」
第二神殿騎士団の演習場で、大神官二人を挑発した件を謝っているのだと分かった。けれどそれは、ジルが受けるものではない。
「私にではなく、大神官様お二人へ」
「次に会ったら謝る。もうケンカを売ったりしない。それで……ジルはまだ、神官になってないんだよな?」
「お恥ずかしながら」
ジルは神官見習いを示す灰色の裾を指で摘まんでみせた。自らすすんで不合格になったものの、体裁が悪いことに変わりはない。呆れているだろうとデリックを窺えば、なぜか拳を握っていた。
「オレ来月から副隊長になるんだ。本当は、ラシードが第五に戻る今月の予定だったんだけど」
「謹慎が解けるんですね」
「それで、」
赤茶の髪がジルの目線に近づいた。見れば書庫の床にデリックは片膝をついている。どうしたのかと目を丸くしていると、ジルは片手を掬い取られた。
「ジルが神官になったら、もう一度申し込ませてくれないか?」
「ダメだ」
「ミューア大神官様!?」
第三者の声にジルの肩は跳ねた。いつ書庫に来たのだろうか。クレイグは口をへの字に曲げて、デリックの手からジルの手を引き剥がした。その手を持ったままクレイグは横に並び、反対側の腕を伸ばしてジルを囲う。
「こいつはオレのだから」
クレイグは土の大神官だ。ジルが神官になれば、ローナンシェ領の教会に配属されるだろう。そのことを考えると、広義的には間違っていない。ずいぶんと言葉が足りないけれど。
突如現れた少年に、騎士は目を見開いていた。ジルとクレイグを交互に見たあと、デリックはため息を吐くように何事かを呟き立ち上がった。
踵を揃えて騎士の礼をとる。それを泰然と受けたクレイグは、自分は土の大神官だと名乗った。それから二人は何も話さない。
――返事は、私からデリック様に言ったほうがいいよね。
くっつかれたままでは話しづらいため、ジルは体に回された腕を外した。クレイグは不満そうだったけれど、抵抗はなかった。ジルは姿勢を正し、青みがかった深緑の瞳を真っ直ぐに見る。
「ありがとうございます、デリック様。ですけれど……私はいつ神官になれるか分かりません。お約束は致しかねます」
ジルは深く腰を折った。大勢の人がいる前で恥をかかせてしまったのに、デリックは怒るどころかまた声をかけてくれた。
――これ以上、迷惑をかけちゃいけない。
そう考えてジルはデリックに断りの返事を伝えた。下げた頭を戻して、次はクレイグに向き直る。
「私の出身はローナンシェ領ですから、ミューア大神官様の任地でお世話になる可能性はあります。けれど確定事項ではありません。安易に公言してはダメです」
軽く眉尻を上げて、ジルは弟へ言い聞かせるように叱った。神官見習いにたしなめられて気分を害したのだろう。クレイグは瞳の夕陽を赤く染めて、眉間に深い皺を刻んだ。不機嫌に鼻を鳴らしたクレイグはジルの手を乱暴に掴み、金糸の髪を翻して歩き出す。
「聖典を読み終えるまでは確定事項だ」
「えっ」
「そこの騎士、もう用は済んだだろう」
鋭く尖ったクレイグの声は、帰れと言外に示している。手を引かれながら振り返ったジルは、デリックが怒っていないことにほっとした。それどころか、あの日演習場でみせたような余裕のある笑みを浮かべ、ジルに手を振っていた。




