52 報告録と膝上
「ここか?」
「はい……っ、待ってくだ」
「待たない」
静かな書庫に二人の声が落ちる。ジルは長椅子の上で体を強張らせていた。
伸びてきた手に怖気づいたジルが制止の声を上げるも、クレイグは容赦なく暴いた。膝の上で開かれたジルは、固く目を閉じ顔を逸らす。組んだ両手を口元に当て堪えていると、すぐそばでくつくつと喉を揺らして笑う意地悪な声が聞こえた。
「お前から言い出したんだぞ」
「こ、心の準備がまだ」
「ただの絵じゃないか」
ジルの膝上には、一冊の書物が広げられていた。クレイグの故郷を襲う魔物は、マンナフローグという人喰い蛙だ。
読み飛ばしたページに、その魔物の情報が記されていた。そのことを思い出したジルは、一緒に読んで欲しいとクレイグにお願いしたのだ。
◇
午後講義を終えたジルがいつもの時間に書庫へ行くと、すでにクレイグが待っていた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「予定が早く済んだだけだ」
ジルはクレイグの隣に座り、聖典をのぞき見た。このページ数なら明日、早ければ今日には読み終えてしまうだろう。
――魔物の情報を伝えるなら、今しかない。
ジルは書棚から目当ての物を取り出し、クレイグの前に立った。背もたれに身を預け、聖典に落ちていた顔が上がる。
「恐れながら、土の大神官様にお願いがございます」
「なんだ」
「ご一緒に読んでいただきたいページが……一人では、怖くて」
ジルは両手で報告録を掲げた。もう子供ではないのにカエルが怖いなんて、と少し恥ずかしかった。
ばつの悪さから困ったように微笑めば、大きな音を立てて聖典が閉じられた。俯いた頭に金糸の幕が下り、長い前髪でクレイグの顔が見えなくなる。肩が小さく揺れている様子から、怒らせてしまっただろうかとジルは焦った。クレイグは聖典を読むために、書庫に来ているのだから。
「読んでやってもいい。ただし条件がある」
顔を上げたクレイグは笑っていた。良かった、情報を伝えられると内心ほっと息をついたジルは、続きの言葉を待った。正面に座った人形のように愛らしいクレイグの瞳が、鮮やかな夕焼け色に染まる。
「しゃべり方を戻せ。あと呼び方も変えろ」
「立場がございます。ご容赦ください」
「じゃあオレは読まない」
「……分かりました。でも、本当にバカになんてしてないですよ」
勝ち誇ったような顔をしたクレイグに、ジルは頬を膨らませた。魔物の殲滅とジルの保身、天秤にかけずとも結果は明らかだった。
クレイグの隣に座ったジルは件の報告録を膝に置き、対象が記されたページの一つ前まで広げた。
◇
「人を養分に百から二百個の卵を産む。およそ二十日間後の深夜に孵化。幼体は瞬時に成体となる。飢餓状態のマンナフローグはエサを求めて移動し、目に入った生き物を喰らう」
顔を背けたジルから書物を取り上げたクレイグは、魔物の生態を読み上げた。
ジルは目をうっすらと開けてページを窺う。ぼってりとしたまだら色のカエルと目が合った。顎は垂れており、腹は大きく膨らんでいる。頭部からは一本、表皮と同じような色の角が生え、しなった先端は光っているようだった。
「成体の表面は厚い粘液に覆われている。斬撃は不利。刺突や射撃、魔法を推奨」
ジルは渋い顔をして聞いていた。聖女の儀式に同行した際、遭遇するかもしれない。クレイグにはぜひ、卵のうちに殲滅していただきたい。
「なんでずっとオレが読んでるんだ」
「知識は身を助けるんですよ。損することはありません」
「ならお前も読め」
「うっ」
飽きたのかクレイグは声に不機嫌を滲ませている。ジルの膝上に、ページを開いたままの報告録が戻ってきた。
どんな高名な画家が描いたのか、マンナフローグは今にも紙から飛び出してきそうだ。しかし読まない選択肢はない。ジルは絵姿が目に入らないよう、ページに片手をかざした。
「……卵は魔法で容易に駆除できる。一般のカエル、の卵と見分けがつかない時は、水辺から引きあげ太陽に当てるとよい。マンナフローグ、の卵であれば日光を嫌がり、水中に戻ろうとする」
百個の卵が、とその場面を想像してしまい背筋がゾワゾワした。小さく呻きながらも読み上げたジルは、急いで報告録を閉じる。どっと精神が削られた。ジルが深呼吸を繰り返していると、隣から伸びた手に書物を取り上げられた。
「寝る」
クレイグは当たり前のように、ジルの膝に頭を置く。先ほどまで読んでいた報告録と聖典は、長椅子の端によせられていた。
「聖典は読まないんですか?」
「見習いが来る前に読んだ」
「もう少しで読み終わりそうですよ?」
クレイグから答えは返ってこなかった。寝に入ったのだろうか。今日も横を向いているため金糸の髪がみえるばかりで、顔は見えなかった。
――眠れてないのかな。
クレイグは土の大神官となって間もない。知らない場所に慣れないことばかりで、気が張っているのだろう。自警団では皆に構われ、大切にされているのだ。
甘えられているのかと思えば、弟が一人増えたようで擽ったい。羽織を脱いでクレイグの体にかけ、ジルは陽だまりのような髪をそっと梳いた。
「おやすみなさい」




