49 少年と聖典
「ぇ……、ねぇ!」
「なんでしょうか?」
「なんで手つないでんの」
ジルは少年に手を引っ張られて足を止めた。書庫を離れ、西棟二階から聖堂棟へと続く渡り廊下を歩いているときだった。声に不満を滲ませた少年は、握られた手をじっと見ている。
「えーっと、寒かったので」
「オレは寒くない」
「失礼いたしました」
つないだ手を離そうとしたとき、今度は少年のほうから握り込まれた。パチパチと瞬きを繰り返してジルは手元を見る。
「お前が寒いなら、もう少しつないでやっててもいい」
ふん、と顔を逸らした少年の表情は、長い前髪に隠れて見えなかった。形の良い頭部に沿って、金色の髪が流れる。廊下には魔石ランプがともっていたけれど、少年はそのどれよりも煌めいていた。
「それでは東棟まで」
少年の冷たい手を握り直し、ジルはまた歩き出した。東棟に着くまで少年は大人しく手を引かれていた。けれども知った顔をみつけたのか、薔薇の間に近づくと手がサッと離れた。
「どちらにいらっしゃったのですか」
「散歩をしていた」
「皆様がお待ちです。早くこちらへ」
司教、あるいは司教補を示す深縹色の法衣をまとった年かさの神官が、慌てた様子で少年を連れて行く。ジルは手が離れたときから後方で控え、視線を下げて草礼をとっていた。
だからその時、少年がどんな顔をしていたのかジルは知らない。
◇
少年を東棟まで案内した翌日、今日もジルは書庫にいた。
定位置となった長椅子に座る。日光は書物の敵だからここに窓はほとんど無い。しかしこの長椅子のそばには明りとりの窓があった。
明るくて文字が読みやすく、時間帯によってはぽかぽかと暖かいこの場所は、ジルのお気に入りだった。昨日と同じ報告録を手に取り、続きを開く。
「そこの見習い」
誰かが書庫に入ってきたのは気が付いていた。けれどそれが、昨日の人形のような少年だとは思わなかった。金色の髪は今日も輝いている。ジルは書物を閉じて立ち上がり、草礼をとる。
「ここで何をしてるんだ」
「……調べものをしておりました」
「いつもここに居るのか?」
「毎日ではないですけれど」
「ちょうどいい。見習い、これの読み方を教えろ」
ジルが座っていた長椅子に、少年はどさりと腰掛けた。膝の上で分厚い本を広げている。ジルはそれに見覚えがあった。
「聖典ですね。これは“あがない”と読みます」
「どういう意味だ」
「罪を償う、という意味です。女神ソルトゥリスは御身を犠牲に、生界へ加護を齎しました。それは私達の罪です。罪人である私達は信仰によって贖う、といった事が書かれています」
ジルは八歳の時に教会領にきた。初めは文字の読み書きから覚えて、すらすらと聖典を読めるようになったのは十四歳の頃だった。
この少年はエディと同じくらいだろうか。その後も少年は、分からない文字があればジルに質問し、また聖典を読むを繰り返していた。
「陽が暮れますけれど、お送りいたしましょうか?」
窓から差し込む光が弱くなり、文字が読みづらくなってきた。ジルが隣へ首を傾げると、少年は夕焼け色の瞳を濃くして、むっと不機嫌な顔になった。
「もう覚えた。必要ない」
「失礼いたしました」
昨日、この少年は迷子になっていた。
書庫は西棟の端にあり、人は滅多に訪れない。知らない場所で道も分からず、一人でいるのは心細かったに違いない。少年はずっと不機嫌な態度をとっていたけれど、扉前でジルを見たとき、一瞬ほっとしていたのだ。
「そのしゃべり方やめろ。なんか、バカにされてる気がする」
「滅相もございません」
ジルは頭を左右に振った。高位の神官が迎えに来たことから、少年はそれなりの身分であることが窺えた。
ただ少し、聖典を懸命に読む姿と、年齢が弟に近そうであることから、可愛いと思ってしまった。顔の半分は金色の前髪に隠れて見えないけれど、口を曲げてジト目で責める様子も微笑ましい。
「笑ってるじゃないか」
「えっ」
ジルは慌てて口元を手で覆った。そろりと少年へ視線を移動させると、夕焼け色の瞳は赤みが増している。怒らせてしまったようだ。
「ほら、暗くなる前に帰りましょう!」
ジルは少年の手を取り長椅子から立ち上がらせる。おい、と不満を漏らす少年の手を引いて、足早に書庫から渡り廊下まで連れて行った。それからジルは素早く辞去の挨拶をして、西棟に引き返した。
◇
人形のように愛らしい少年は、次の日、そのまた次の日も聖典を持って書庫に来た。




