44 親子と宣誓
視点:ウォーガン
「もう話さなくていい」
春をひさいだ記憶など辿りたいはずがない。隣に座る小さな肩を抱き寄せると、銀色の髪が左右にさらさらと波打った。
「違うんです。おじさんは、仕事をくれたんです。農場で働くか、て」
顔を上げたジルは、弱々しくも微笑んでいた。
収穫物の選別や肥料作り、掃除、雑用など何でもやったとジルは話した。報酬はけして多くなかったが、一日一食は口にできるようになったと、嬉しそうに話している。わだかまりなく心から笑うものだから、ウォーガンは心臓が握られたように痛かった。
神官見習いになってから必要な栄養は摂れているはずだが、ジルの体は平均よりもまだ小さかった。エディはこれからが伸び盛りだ。心配いらないだろう。ウォーガンは軽い体を毛布ごと抱き上げ、自分の膝上に座らせた。ジルは瞬きを繰り返し、紫の瞳を丸くしている。
「ウォーガン様、私もう子供じゃないので」
「いいや。ジルもエディも俺の子供だ。ずっと」
それは宣誓だった。罪滅ぼしから始まった親子ごっこでも、七年の歳月は情を持つのに十分な時間だった。
ウォーガンが真剣な眼差しで告げると、ジルの顔はみるみると歪んでいった。一度決壊してしまえば脆くなるのかもしれない。相変わらず声を押し殺すジルの目元をぬぐおうとウォーガンは手を伸ばして、止めた。こすってしまえば少し腫れている目がさらに酷くなるかもしれない。
布は無いかと周囲を探れば、一つしか思い当たらなかった。胸元の内ポケットからハンカチーフを取り出し、ジルの涙を吸い込ませた。
「……これ」
「お前達が毎年くれるヤツだ」
気恥ずかしさから顔を背け、ぶっきら棒な言い方になってしまった。しまった、怖がらせたかと視線をジルに戻せば、瞳一杯に涙を湛えて笑っていた。
「使って、くれてるんですね……嬉しいです」
目を細めた拍子に、雫が落ちた。潤んだ瞳は紫水晶のごとく艶めいており、上気した小さな唇はふくらみ始めた蕾のようだった。
――これか。
大神官二人が執着する理由の一端に触れた気がした。ジルは今、ハンカチーフを持つウォーガンの手を愛おしそうに撫でている。この体勢を選んだ自分を若干呪いつつ、新しく流れた涙をふきとる。
「困っていることはないか?」
肢体の強張りを感じた。何かあるとすぐに判ったが、ジルは口を閉じたまま握り込んだ自分の両手を見ている。
「……俺は親たり得ないか」
独白めいた声には後悔が滲んだ。今日に至るまでの対話不足が原因であることは明白だった。信頼を得ていないのだと歯噛みしていると、俯いたままのジルがおもむろに頭を振った。
「私が、弱いんです。……拒絶されるのは、こわい」
「こちらを見なさい、ジル」
あえて口調を変え、毅然たる声音を意識した。これまでとは違う様子のウォーガンにジルは肩を揺らし、一拍置いて顔を上げた。紫の瞳は怯えや不安で揺れ動いていた。その瞳を捉えるため、ウォーガンは自分の額とジルの額を合わせる。
「俺は、全部受け入れる。お前を否定しないし、拒絶もしない」
紫紺の瞳孔が大きくなる。ジルは目を皿のようにして呼吸を止めていた。やがて苦しさを思い出した肺腑は空気を求め、口を開いた。
「嘘つきとか、気が触れてるとか……言わない?」
「言わん。剣に誓ってもいいぞ」
合わせていた額を離し、壁にかけている剣へ目を向けた。その剣は自身の体格に合わせた誂えもので、剣身の幅は通常の三倍はあった。同じように剣を見ていたジルが膝の上から降り、隣に座り直した。
両足を揃え、目線を前に据える。すっと背筋を伸ばしたその姿に、泣いていた幼子の面影は無かった。
「十歳の時に――」
一介の神官はおろか、神殿騎士団の団長である自分でさえも知り得ない事柄にまで話は及んだ。よどみなく整然と語られた内容に、ウォーガンは胃が痛くなるのを感じた。
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