39 書庫と不誠実
――どうしてこんな事になってるんだろう……。
第二神殿騎士団の演習場でジルはめまいを覚えた。ジルの前方左にナリト、右にルーファス、そして正面にデリック、両者の中央側面にはラシードがいた。
デリックは不敵に笑っており、ラシードは今にも大剣を構えそうな雰囲気だ。ナリトとルーファスの顔は見えないけれど、これまで感じたことのない空気をまとっていた。風は吹いていないのに肌寒い。
◇
エディがデリックと手合わせをおこなった日、ジルは書庫に行かなかった。魔物の情報など頭に入らないと分かっていた。だから自室で、弟の帰りをずっと待っていた。
――後悔しないために、できることをしよう。
一日ぶりに書庫を訪れたジルは、扉の近くで足を止めた。初日よりも減っているけれど、平時に比べれば今日も人の出入りが多いのだ。隙間からそろりと中を窺えば予想した通り。艶やかな黒髪と、ふわふわの飴色髪が並んでいた。
――大神官総会、終わってないのかな。
総会は一日で終わりだとジルは思っていた。出席者が少ないのだ。議論も何もあったものではないだろう。ナリトは枢機卿と話があると言っていたから、難航しているのかもしれない。ではルーファスは、とジルが首を捻っていると、またもや名を呼ばれてしまった。
「ジル嬢、先日は体調を崩されていたのですか?」
「いえ、少し慌ただしくて……お二人は昨日もこちらに?」
ジルの質問に異口同音の肯定が返ってきた。今日も魔物情報は集められそうにない。話は一旦そこで区切り、三人は長椅子に場を移した。前回と同じ配置でジルが中央に座っている。
「今日は予定を空けさせたから、朝まででも手解きできるよ」
ナリトはジルの手を掬い取り、なめらかに微笑んだ。楽しそうなタルブデレク大公の背後に、予定調整で奔走するユウリの姿がみえた気がした。
今日も神官試験の勉強をみてくれるということだろうか。ナリトが得手としている数学と教養は、ジルが苦手としている科目だ。初歩から習うのも理解が深まっていいかもしれない。
「風の大神官様も、同じご用件でしょうか?」
左隣に首を傾げてみせれば、ルーファスは口籠ったあと、消え入りそうな声ではいと答えた。顔が赤い気がする。熱でもあるのだろうかと、エディにする癖でジルはルーファスの額に手を当てた。
「少し熱いです。ご体調が優れないようでしたら」
「こ、ここに来る前に礼拝堂の手伝いをしていたので、体が温まっているだけです」
「私は一人でも構わないが」
「僕もお付き合い致します」
無理をしていないだろうかとルーファスの顔色を窺えば、安心してくださいと力強く頷かれた。
そのまま今日はどの科目を勉強するのかと問われたジルは、丁度いい機会だと思った。すべてが終わるまで、二人への返事は保留にしておこうと思っていた。けれど、後顧の憂いは少ない方がいい。それに二人を無期限で待たせるのは不誠実だ。
ジルは長椅子から立ち上がり、左右に座った二人の大神官に向けて頭を下げた。
「申し訳ございません! お二人の任地には行けません。お気遣いくださったのに……ご無礼をお許しください」
折角の厚意を無下にするのだ、顔を上げられなかった。深く腰を折ったまま、ジルは目を固く閉じていた。
「理由を訊いてもいいかな?」
凪のように穏かな声だった。ジルは一度目元にぐっと力を入れて、瞼を押し上げる。
そこには、跪いたナリトがいた。片膝をつき、真剣な眼差しをジルに向けている。水かさが増したように身動きがとれず、青い瞳から目を逸らせなかった。
「お嫌でなければ、僕も伺いたいです」
ルーファスに片手を取られた。表情こそ眉尻を下げたいつもの笑みを浮かべているけれど、ためらいがちな声には淋しさが滲んでいる。やわらかな葉を思わせる緑の瞳が今は萎れているようにみえ、ジルはつきりと胸が痛んだ。
そのままルーファスに手を引かれ、ジルは長椅子の中央に戻った。左にナリト、右にルーファスが座り直すのを待って口を開く。
「婚姻を申し込まれたんです」
「は?」「えっ」
「あ、正式なものではなくて。まずは婚約になるかと」
「「相手は?」」
元々三人で利用するには窮屈な長椅子だったけれど、今は更に狭く感じた。ナリトとルーファスの距離がとても近いのだ。二人が同時に詰め寄ってきたため、ジルは背もたれに身を預け仰け反っていた。
「第二神殿騎士団所属のデリック様です」
「「デリック」」
ジルはエディが呼ぶのに合わせた呼び方で名前を答えた。同時に復唱した二人からは、いつの間に、呼ばれたことないのに、と呟きが漏れていた。




