38 聖神官と求婚
自室の扉を開けて、抱えられたエディを目にしたなら血の気が失せた。
ジルは運んでくれたデリックにお礼を言い、弟が寒くないようしっかりと布団を被せる。エディはデリックから一本取れたようで、近く従卒採用の報せが届くだろうと説明された。
「頑張ったんですね。ありがとうございました、デリック様」
眠る弟の頬を撫で労ったあと、ジルはデリックに向き直り穏やかに微笑んだ。ほっと安心したような、やっぱり淋しいような。あの体の弱かった弟が、と感慨深いものがあった。
――これなら、私がいなくても大丈夫だ。
残るはどうやって従者の時に入れ替わるか。思索にふけり始めたその時、急に横から手を掴まれた。デリックの存在を忘れかけていたジルは、何事かと肩が跳ねた。伸ばされた腕を辿り、深緑の瞳を窺う。
「惚れました! オレと結婚してください!」
ジルは何を言われているのか、すぐには飲み込めなかった。青みがかった緑色の瞳は熱っぽく光り、握られた片手は大きな両手に固く閉じ込められている。きっとこの騎士は、ジルの魔法を知らないのだろう。知っていたらこんな事は言わないはずだ。
「私の魔力は聖です。けれど、他者を癒すことができません」
騎士の役には立てないと伝えた。戦場に身をおく騎士にとって、聖神官は相性が良かった。常に死と隣り合わせなのだ。回復魔法はまさしく起死回生の一手だった。
けれど、それを厭う聖神官も多い。教会から要請があれば聖魔法を施す。しかし伴侶となれば、それが日常となるのだ。明日には夫が死ぬかもしれない、毎日無事を案じケガを癒す。耐えられないと感じるのは無理からぬことだろう。
ジルは鍛練でぼろぼろになったデリックの両手に、握られていない方の手を添えた。弟の手もきっとこうなるのだろう。魔法は使えるのに治せない。自分が眉尻を下げるとエディは心配するから、ぐっと堪えて唇に笑みを刷いた。
「ごめんなさい」
俯けていた顔を上げると、握られた手に一層力が入った。その拍子に身を引かれ、デリックとの距離が縮まった。真上を見るに等しい格好で、ジルはデリックに顔を向ける。赤茶髪の騎士は、朗らかに笑っていた。
「大丈夫。オレは君の笑顔に癒されてるから」
そんなことを言われたのは初めてだった。
何か言おうとジルは口を開くけれど音にならず、閉じては開いてを繰り返す。
「……弟が寝ている横で、姉を口説かないでください」
「! エディ、体は痛くない? 熱は?」
弟の声にジルは身を翻した。握られていた手は動きを阻害することなく解け、枕元に近づけた。半身を起こそうとするエディを手伝う。
「ちょっと、疲れただけだから。……デリック様、姉はまだ成人していません」
「今、何歳?」
「十五です」
「それじゃあ、来年また申し込む。その時まで考えてて」
それからデリックは、足はもうしばらく冷やすようにとエディに言い添え、手を振りながら帰って行った。
「賑やかだったね」
「悪い人じゃ、ないとは思う。……どうするの?」
「わからない」
ジルは足の力が抜けたようにエディの寝台へ座り込んだ。聖の魔力持ちなら、婚姻の申し込みは珍しいことではない。ジルも初めてではなかった。いつもならその場で丁重にお断りをするのだけれど。伏せた目に、自分の掌が映った。
「私でも、役に立てるのかな」
自己回復というジルの能力は特異なものだ。しかし、聖神官は他者を回復できるが故に貴ばれているのだ。魔力の講義中、ジルはいつも肩身が狭かった。実技も他者回復ができないため、皆とは違う訓練を行っていた。
だから嬉しかったのだ。
デリックに癒されていると言われ、口にできない想いで、胸が一杯になるほどに。
「僕はいつも、姉さんに癒されてるよ」
平坦な声はいつもより、やわらかだった。ジルは振り返り、弟を抱き締めた。眉間に皺が寄るのを抑えられない。歪もうとする唇に力を入れて引き結んだ。
「デリック様のことは、好き?」
「……わから、ない」
「それなら……僕とデリック様、どっちが好き?」
「エディ」
気を緩めれば漏れそうになる嗚咽を堪えてジルは答えた。弟にみられないよう、首元に顔を埋めた。エディの腕が背にまわり、ぽんぽんと叩かれる。
「まだ時間は、あるみたいだから……後悔しないように、ね」




