36 選択肢と希望
「とてもいいと思います。宿屋のお仕事が好きだと仰っていましたよね」
ルーファス本人の口から、稼業を継ぐ旨の言葉を聴くのは初めてだった。
先刻、ひつじの寝床へ招待するなんて話もでていたから、ジルの作戦は功を奏したのだと嬉しかった。ルーファスに良案だと何度も頷いていると、隣にある顔が陰った。
「それで、ジル嬢に手伝っていただけないかと……でも、タルブデレク領へ行ってしまうのですよね」
「え?」
「遊びにいらっしゃるだけでも構いません。もし宜しければ、リングーシー領も選択肢の一つに加えていただけませんか?」
首を傾げて覗き込んできたルーファスは、寄る辺のない子犬のような顔をしていた。瞳は、雨に濡れた緑葉のようだ。思いもよらない提案に、ジルの目はパチパチと瞬いた。驚いた思考のなかでも、一番大切なことは忘れない。
「弟が一緒でも、構いません、か?」
「勿論です。弟さんがいらっしゃったのですね。お会いできる日が楽しみです」
ルーファスとナリト、どちらの誘いもエディと共にいられる。ジルにとってはこの上ない条件だった。それでも、来年の神官試験は不合格から変わらない。試験に合格できるか分からないとルーファスに伝えれば、問題ないと返ってきた。
「僕も生界が安定するまでは神官に就いていますから。こちらの方がお待たせしてしまうかもしれません」
故郷のローナンシェ領に配属されるよりは、どちらかの領地を希望した方がいいのは判っていた。それでも、ジルには受諾できない理由がある。
――新しい聖女様が現れたら、白紙になるだろうな。
その時、二人を困らせてはいけない。だからジルは卑怯にも、有耶無耶なままにしておきたかった。ヒロインが選ばなかった方を希望すればいいのだと。
――それに、なんだっけ……はーれむるーと? もあるし。
攻略対象全員がヒロインと親密になった場合、声をかけていた女神官など邪魔にしかならないだろう。迷惑をかけたくないジルは、すべてが無事に終われば教会の差配に従うつもりだった。
「ありがとうございます、リンデン様。お返事は」
「いつでも構いません。その時は、色よい返事だと嬉しいのですけれど」
そう言ってルーファスは眉尻を下げて笑った。ジルは曖昧な笑顔で一礼した後、陽が暮れるからとその場を辞した。
◇
寄宿舎の食堂でエディと合流したジルは、申し訳なさで一杯だった。胸の前で両手を合わせ、隣に座った弟を窺う。
「ごめんなさい! まさか厩舎に来るなんて」
「北方騎士棟に、近いから。でも……副隊長様も一緒だったのは、驚いた」
今日、仕事場である厩舎に二人の騎士が訪ねて来たのだとエディは話した。
一人は攻略対象である鈍色髪に褐色肌のラシード。もう一人は、エディを従卒三人組から助けてくれた赤茶の髪をしたデリックだ。なんでも、第五神殿騎士団に戻るラシードに代わって、デリックが副隊長に就くことが内示されたらしい。
――それ、口外していいのかな。
だから春、弦ノ月からデリックの専属従卒にならないかと誘いを受けたそうだ。ちなみに、ウォーガンの許可はとってある用意周到ぶりだ。でもそれで、どうしてラシードがいたのだろうかとジルが訝っていると、エディが答えた。
「最初は、副隊長様のお話だったから。けじめに連れてきたって、デリック様が言ってた」
「エディ、嫌だったら断ってもいいからね?」
「うん。あれは、姉さんが手合わせした結果だし……でも、」
そのままエディは黙り込んでしまった。考えを咀嚼するように、スープ皿に盛られたニンジンをゆっくり食べている。今日の夕食は、根野菜と鳥を香辛料で煮込んだものだ。弟が話すまで、ジルも黙ってスプーンを動かした。最後のひと口を食べ終えたとき、エディの声が聞こえた。
「もう一度、手合わせしていただこうと思う」
「副隊長様に?」
「違うよ。デリック様の、専属なんだから」
ジルは胸を撫で下ろした。ラシードとエディが、剣を合わせることはなさそうだ。しかし、安心してばかりもいられない。
「ケガをするかもしれない。危ないよ」
「……姉さんが言うの?」
ジト目の中で、紫色の瞳が呆れたと語っている。それでも怯まずジルは言葉を重ねる。
「従卒になったら騎士宿舎に入るんでしょう? 一緒に居られなくなるよ」
「それは、僕も嫌だけど……姉さんもいつかはここを出る、よね」
それが少し早まるだけだとエディは言った。落ち着いた声音で話す弟の成長は姉としてとても嬉しく、同時に淋しくも感じた。エディの希望は叶えてあげたい。
――入れ替わる方法を練り直さないと。




