34 大神官と勉強
伸びてきた腕はぐるりとジルの前肩を支え、ルーファスとの衝突を防いでくれた。そのまま後方に引かれたため、ぽすりと後頭部をナリトの体に当ててしまう。ジルは驚き背後を見上げた。
「君が望むなら巡礼の許可を出そう」
覗き込まれるかたちとなったジルの視界に、艶やかな黒髪の幕がおりる。巡礼の許可は本来、教会の管理者である司教が出すものだ。しかし大神官は司教よりも上の発言力を有しているため、ジルが望めばナリトの言は偽りなく実行されるだろう。
――エディも連れて行っていいのかな。
間近に迫った青い瞳を眺めそんなことを考えていると、コホンと咳払いが聞こえた。少し前まで、大神官を椅子代わりになんてできないと思っていたのに。背もたれにしている自分に気が付いて、ジルは慌てて身を起こした。
「失礼いたしました!」
「あのままでも私は一向に構わないが」
「ジル嬢が勉強できませんよ」
ルーファスは困り顔でナリトに告げた後、飴色の髪をふわりと揺らしてジルへ首を傾げた。
「今日はどの科目を?」
「えっと……教理、です。役職名が覚えられなくて」
――魔物です!
とは言えなかった。咄嗟に口をついて出た言葉だったけれど、ジルの中で曖昧になっているのは本当だ。
「似た職名がありますからね」
「どちらが上職かとかこんがらがってしまって」
「法衣の色も引っかけ問題のようですし」
「そうなんです! もう全部おなじ色でいいと思います」
神官試験を受けているルーファスは、間違えやすい箇所を的確に挙げてきた。試験仲間を得た気持ちのジルは、同僚に接するような気安さで応答してしまっている。ルーファスはそれをとがめる事無く、不満に頬をふくらませたジルに嬉しそうな眼差しを向けていた。
「それだと尚更役職が分からなくなってしまうよ?」
左を振り向けば、面白いものを観察するような瞳でナリトに見られていた。もっともな指摘にジルは言葉を詰まらせる。真面目に覚えるしかないようだ。観念したジルの気配を察してか、ルーファスは椅子から立ち上がり書棚の前に移動した。
「丁度このあたりに組織図が……ありました」
ルーファスはさして迷うことなく箱入りの書を選び、再びジルの隣に座った。手慣れた様子から、ルーファスも書庫を利用しているのだろう。
箱の中には四つ折の組織図が入っていた。茶色くあせている様子から、古い物だと分かった。組織図は大きく一人では広げきれないため、右端をルーファスが、左端をジルが持った。
紙の一番上には女神ソルトゥリスが記されており、次には聖女や教皇などの文字が見えた。組織図は下にいくほど枝分かれが多くなり、ジルには見覚えのない職名もある。物珍しく眺めていると、ナリトから感心する声が上がった。
「随分古いものだが、傷みが少ないな」
「ここは気温が低いので、書物にとって良い環境なのでしょう」
「何年前のものなんですか?」
「少なくとも三百年は前だ」
「三百?! 貴重なものでは……触っても良かったんでしょうか」
「書庫への立ち入りが許されてるのですから、問題ありませんよ」
ルーファスは事も無げに答えた。本当だろうかとジルが真偽をはかりかねていると、近づいてくる足音が耳に入った。静かに、けれども短い間隔で鳴る音のほうへ顔を上げると、書棚の陰からユウリの姿が現れた。
「もう来たのか」
「お褒めに預かり光栄です」
「あぁ、優秀な側付きのお陰で安らえたよ」
二人の仲良しなやりとりに和みながらジルは会釈した。すぐにユウリも返してくれたけれど、その表情はどこか疲れているようだ。
「このあたりと会合があってね。名残惜しいが失礼するよ」
ナリトは指先で組織図に円を描いた。円の中心には枢機卿の文字がある。ユウリはその会合の調整をしていたのだろうか。枢機卿は各領地の公務を担当していたはずだ。魔物が増えている今、防衛や人道支援で忙しいのだろうとジルは考えた。席を立ったナリトは、ユウリを伴って扉口に向かっている。
「お体にご無理のありませんよう。ご公務、応援しています」
領民を庇護する立場にあるタルブデレク大公の背に、ジルは深く腰を折り真礼した。新たな聖女はまだ現れない。魔物によって喪われる命は少なければ少ないほどいい。
「荒れ地へ君を招けるはずもない。励もう」
下げた頭の側面を、やや骨ばった大きな手に撫でられた。顔を上げたジルの前には、煌めく清水のような青い瞳があった。形の良い唇はまたねと紡ぎ、先導する側付きと共に去っていく。
長椅子は、ゆったりと座れるようになった。




