33 書庫と長椅子
生界史の講義が終わったジルは、書庫に足を運んだ。
ここ数ヶ月、暇をみつけては神官試験の勉強と称して魔物のことを調べていた。今日も夕食の時間まで情報を集めようと思っていた。
――どうして、ここに居るんだろう。
リシネロ大聖堂の西棟端にある書庫は奥まったところにあり、人影はほとんど無かった。いつもなら。
今日は臥ノ月初日だから、大聖堂に姿があっても不思議ではない。しかし揃って書庫にいる理由は分からなかった。生界に四人しかいない大神官のうち、半数の二人がそこにいた。
普段は任地にいるため、教会領では稀有な存在だ。その上、攻略対象だけあって見目も整っている。その姿をひと目見ようと神官や見習いは当然のこと、講師まで書庫に出入りしていた。高位職である二人に気安く話しかける者はいないけれど、窺う視線は一方向に集中している。
――今日はやめておこう。
こんなに人がいては集中できない。何より、聖女の従者となった時にボロを出さないよう、必要以上に近付きたくなかった。扉の外から様子見をしていたジルは踵を返す。
「講義は終わったのかな、ジル嬢」
踏み出した一歩目は、玲瓏な声に絡めとられてしまった。人の目もあり、名前を呼ばれてしまっては無視もできない。近づく足音に振り返り、ジルは声の主に行礼をとった。
「水の大神官様におかれましては、ご健勝のこと何よりと存じます」
「私には畏まらなくていい。普段通りで構わないよ」
不得手とはいえ、教養を七年間学んだ身には承服し難い要求だった。ナリトは水の大神官であると同時に、タルブデレクの領主だ。庶民であるジルには本来縁のない人物でもある。謝絶しようと顔を上げれば、ナリトの後方にいた風の大神官と目が合った。
「扉口にいては出入りの妨げになりますから、場所を移しませんか?」
困ったように微笑んだルーファスは、視線をジルから背後に向けた。扉をはさんだ廊下側では、人の渋滞が起きていた。ジルと大神官の関係を知る者は少ない。好奇の目で見られるのは居心地が悪かった。ルーファスの提案に従い三人は、書庫内に設置された長椅子まで移動した。
「……私、やっぱり立ってます」
「それでしたら僕が」
「ジル嬢はここに座るといい」
ジルの左隣に座ったナリトが、自身の膝をぽんぽんと手で叩いている。先ほどまで組まれていた足は解かれ、座りやすいよう両膝を合わせていた。大神官兼領主の足を椅子代わりになどできるはずがない。ナリトの楽し気な声色に、揶揄われているのだとジルは推量した。
「恐れ多いです。真ん中に座りますから、風の大神官様もお掛けください」
立ち上がっていたジルは移動することなく、その場に腰を下ろした。同じく立っていたルーファスはジルが座るのを見て曖昧な笑みを浮かべ、右隣に納まった。
三人がいるのは書庫だ。十分な広さに大きな机、大人数が利用できる椅子を備えた図書館ではない。書棚が所狭しと並び、椅子は必要最低限にしか置かれていなかった。
ジル達が座っている長椅子は、二人ならゆったりとしていただろう。けれど今は三人で利用しているため、とても距離が近かった。左右どちらかへ傾けば、体が触れてしまう。ジルは扉前にいた時と同じくらい居心地が悪かった。身を縮ませていると、左耳に滑らかな声が流れてきた。
「ルーファス大神官は、ジル嬢と親しいのかな?」
「お会いするのは本日で三度目です」
「私も同じだ。ジル嬢、どうしたら君は私をナリトと呼んでくれる?」
「ご容赦ください」
昨年の今頃、ジルはルーファスにも同じ言葉を返していた。ウォーガンの家名であるハワードと呼ばれる方が嬉しいジルにとっては、何故こうも名前を呼ばせたがるのか不思議でならない。立場的にも名前で呼ぶつもりのないジルは、話題を変えるべく続けて口を開いた。
「お二人はなぜ書庫にいらしたのですか?」
「講師の方に、貴女がここで試験の勉強をしていると伺ったものですから」
役に立てるのではないかと思いジルを待っていた、と二人は答えた。ルーファスは現役の神官であるだけでなく、史上最年少で試験に合格している。試験科目である生界史と教理は得意だと穏やかに告げられた。領主であるナリトには、数学と教養で悩んだことはないと言われ、ジルは尊敬の念を抱いた。
「神官試験に合格したら、私の領地へ来て貰わないといけないからね」
「タルブデレク領へ? それではジル嬢をひつじの寝床にご招待するのは……」
「行ってもいいんですか!?」
ふかふかの寝台、とジルは瞳を輝かせて右に振り向いた。勢い余って身を乗り出してしまう。ルーファスにぶつかると思った時、背後から腕が伸びてきた。




