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傾界の聖女  作者: たま露
【救世の魔女】
314/318

水の領地:夢のつづきは現で

 教会領で神官教育を受けたという経歴を活かし、ジルはシャハナ公爵邸の一角に建つ礼拝堂で働いていた。


 水の聖堂を模したようで建物は泉にせり出しており、窓の外では澄んだ水が静かにこんこんと湧いている。周囲に植えられた花木はうららかな陽を浴びてキラキラと輝いていた。


 この礼拝堂は公爵家が独自に建てた施設であり、常駐の司教や神官はいない。ソルトゥリス教会の認可は受けているため、冠婚葬祭などの折々に水の聖堂から大司教などを招いているらしい。


 ――今日は通るかな。


 つまり儀礼時を除き、ここにはシャハナ公爵家の関係者しか訪れない。これまでは使用人たちが清掃をおこなっていたところに、ジルは専任として雇用されたのだ。神官としてではないため使用人の恰好をしているけれど、それでも構わないと礼拝に訪れる人々は親切だった。


「貴女ではないのね?」


 タルブデレク領にやってきて五日を過ぎた頃、ジルはお仕着せ姿の女性数名に囲まれていた。


「私はここの管理者として雇われました」

「そうよね。聖堂にも入れない、神官くずれなわけがないわよね」


 以前、宮殿に滞在していた時には見なかった顔だ。妙齢であることから、行儀見習いとして新しくやってきた令嬢たちだろう。鼻をツンと立てた若い侍女はジルの返答に満足したのか笑みを浮かべている。


「だから言ったでしょう。聖女様のようなお方が、雑巾なんて握っていないわよ」

「第一候補様は、別のかたとご婚約なさいましたし。お心を掴んだのは、どなたなのかしら」

「わたくし父から、大公閣下を癒して差し上げなさいと言われておりましたのに」


 並べられた長椅子を拭いていたところに押しかけて来た若い侍女たちは、思い思いの言葉を口にしながら礼拝堂を去って行った。


 ――結婚、するんだ。


 嵐のような一行が過ぎたあとに残ったのは、驚きと焦り。いや、驚くのは筋違いだ。聖女制度が廃止されてから四ヶ月が経過している。魔王討伐の事後処理が落ち着きはじめた今、そろそろ婚姻をと考えてもおかしくはない。ナリトは、シャハナ公爵家の当主なのだ。


 ――どうしよう。


 次代聖女の従者に扮していたのは妖魔で、ジルではない。髪は闇の精霊に頼んで茶色に変えてもらい、名前は教皇に申請してジリアン・ハワードと改名している。


 自分は偽聖女でも、従者でも、神官見習いでもない。ただの使用人がタルブデレクの領主と一から関係を築くのは無謀だったのだろうか。現にジルは、未だにナリトの影さえ目にしていない。まずは顔を覚えて貰おうと機会を窺っていたのだけれど。


「違う」


 何をしにここに来たのだ。後悔を繰り返すためじゃない。自分の足で、逢いに行けるのだ。


 その日のうちにジルは街へ出て道具一式と、青い刺繍糸や絹のハンカチーフを買い求めた。それから陽が暮れてからはずっと苦手な刺繍に励んだ。


 針を刺すたびに、期待と不安が入れ替わる。受け取って貰えるだろうか、不敬だと追い返されるかもしれない。喜んでくれるだろうか、下手だと笑われるかもしれない。


 幸いにも、慰労金という名目でソルトゥリス教会から譲渡された資産があるため、材料の購入費には困らない。ジルは納得できる仕上がりになるまで何枚も作成した。


 行儀見習いの令嬢たちが礼拝堂にやって来た日から、四回目の深夜。


「刺し目……糸の処理……よれも、無しっ、できたー!」


 白くなめらかな生地に刺繍したのは、シャハナ公爵家の紋章に自分の新しい名前。


 かつてジルが贈った刺繍入りのハンカチーフを、ナリトはとても大切にしてくれていた。


 完成したハンカチーフを丁寧に折りたたみ、書き物机に置く。達成感とともに寝台へ倒れ込めば、散らばっていた糸や布がひらりと舞い上がった。もうこのまま眠ってしまいたい。でもダメだ。


「せめて、美容液だけでも」


 自己回復能力が無くなってから気がついたのだけれど、夜更かしは肌に悪いのだ。ジルには身分も、飛びぬけた容姿もない。それでも、好きな人の目に移るのは、いつでも一番きれいな自分でありたい。


 湯浴みは早朝にして、目の下のクマは化粧で隠して、明日はナリトのいる城へ行こう。


 ◇


「あら貴女、どちらへ行くの」


 刺繍が完成した翌日の午後。緊張する手で包み紙を持ち直し、礼拝堂の鍵をかけたところで聞き覚えのある声がした。九日前にやって来た若い侍女の一人だ。


「わたし礼拝をしたいのよ。あけてくださらない?」

「申し訳ございません。これから休憩時間に入りますので、一時間後に」

「こんな辺ぴなところ、いつも休憩しているようなものじゃない。わたしは、今、礼拝したいのよ」


 侍女はジルの言葉を遮り鍵に手を伸ばしてきた。急ぎ祈りたいことがあるのだろう。ナリトがいつ婚姻するとも知れない今、本当は一日でも早く伝えたい。


 しかし管理者として鍵を渡すわけにはいかない。城へ行くのは、後日にしよう。


「あけますから、少々お待ち、っ」


 侍女を避けたとき、ひらりと白い布が視界をかすめた。咄嗟に伸ばした手は空を掴む。泉に落ちたハンカチーフに、じわりと水が浸みてゆく。


「ちょっと、早くしないといらしてしまうでしょう!」


 一番、きれいにできた刺繍だった。早く拾わなくては――。


「沈んじゃう……っ!!」


 水辺に足をかけたその時、ジルよりも早く泉に飛び込んだ者があった。


 澄んだ水に波紋が広がり、青い水底が歪む。仕立てのよい衣装が濡れるのも構わずその人は、ハンカチーフの役目を果たせない布を掬い上げた。


「これは」

「まあ、大変! お風邪を召してしまいますわ、タルブデレク大公閣下」


 黄色い悲鳴を上げた侍女は、礼拝など忘れてしまったように駆け寄っていった。泉から上がったナリトはそれを片手で制す。


「ユウリ、このご令嬢はもう公爵家で学ぶことはないそうだ。馬車の用意を」

「え?」


 立ち尽くす侍女には目もくれず側付きへ指示を出したナリトは、水を滴らせながらジルの前で足を止めた。手の上には、水浸しの刺繍がある。


「私宛て、と思ってもいいのかな?」

「は、……いいえ、違います」


 ジルが贈りたかったのは、つめたく濡れた布ではない。ナリトがくれたものはいつも、あたたかな愛に溢れていた。


「ジリアンという名と、シャハナ家の紋章が刺してあるのに?」


 長い黒髪から雫が落ち、足元に新しい水染みができた。ジルは否定しているのに、なぜナリトは追及するのだろう。不敬だと罰するために証言を得たいのだろうか。


 ――いつ言っても同じ結果なら。


 ジルは俯けていた顔を上げ青い瞳を見た。瞬間、逸らしてしまった。心臓がどきどきする。顔に熱が集まる。ジリアンとナリトは初対面のはずだ。それなのにどうして。


「迎えが遅くなってすまない。初日に君の姿を認めて、手紙でエディ君に確認をとっていたんだ」

「え?」


 予想外の言葉に視線を戻せば、先ほどと変わらない砂糖水のような瞳があった。


「嫌われてはいないだけで、私は、君に求められていないのだと思っていた」


 濡れた体とハンカチーフを水魔法で瞬く間に乾かしたナリトは、流れるような所作でその場に跪いた。ジルの手をとり、形の良い唇がひらく。


「ダメ!!」


 ナリトが言葉を発する前にジルはその口を手でふさいだ。青く艶めいた目が丸くなっている。


 名前が変わっても、髪色が変わってもみつけてくれた。くれるのはいつも、ナリトからだった。

 これからは、自分からも与えたい。


「好きです。ナリト大神官様の傍に、私をおいてください……っ!」


 恥ずかしさも混ざり、最後は頼み込むような勢いで頭を下げてしまった。ナリトはどんな顔をしているだろうか。実はジルの思い違いだったらどうしよう。それなら早く判決を。


 ――じゃない!!


「すみません!」


 ナリトの口を塞いだままだった。慌てて手を離した途端、ナリトの笑い声が零れた。ほんのり色付いた目元が、甘くとける。


「約束しよう。私は生涯、君の刺したハンカチーフしか持たない」


 水底から湧きでるように紡がれた声は、ジルの心を満たしてゆく。手をとられ、先ほどまで当たっていた唇が再び、ジルの手のひらに触れた。


「私も、君が好きだよ」








― 水の領地・了 ―

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