310 犠牲と死亡回避
行き場をみつけた光の粒が、ジルの体に集まってくる。切創に被さった魔素をじわじわ溶かし始めたところで、聖魔法が消えた。理由は言葉にされなくても解る。
涙にぬれた金色の瞳が、ジルを睨め上げていた。
ジルは前総大司教を剣で脅したけれど、殺す意思はなかった。しかし刃を向けた以上、そんな言い訳は通用しない。アルヴァの死も覆らない。
文様の消えた小さな手を両手で包み、ジルは臥した少女に首を垂れた。
「愛するかたを、二人も見送らせてしまい、申し訳ございません」
残してゆくのと残されるのではきっと、残される方がつらい。ゲームでのジルは弟一人の死で闇に堕ちたというのに、不老の聖女はそれを、何度も何度も繰り返してきたのだ。
「聖女の犠牲は、今日で終わらせます」
闇の精霊クノスを封じていた魔法陣は破壊した。次は、光の精霊ソルトゥリスの復活だ。
各領地に奉じられたソルトゥリスの分霊は、陽の出とともに大神官たちが解放している。衛兵や騎士たちがやって来る前に残りの分霊も解放しなくてはいけない。
大神官によって神殿の遺失魔法が破壊されたとき、セレナに付与されていた能力はなんの抵抗もなく剥がれただろう。しかしエリシャは違う。まずは身の内に溜まった魔素をとり除く必要がある。
ジルは抑えていた魔力を解放した。
瞬く間に傷を覆っていた魔素が浄化される。体に奔った紅い傷から眩い光が溢れ、エリシャへと流れていく。乾いた地へ水が染み込むように、奪われたものを取り戻すように。義父の腕を再生した時とは比べものにならない量の魔力が、吸われてゆく。
――ああ、やっぱり。
作戦では、ジルとセレナの二人でエリシャに聖魔法をかける予定だった。壁に隔てられている今、ジル一人でおこなうしかない。
瀕死を癒すだけでなく、闇に堕ちた人の浄化も同時におこなっているのだ。覚悟していなかったわけではないけれど、それと同時に、今回もどうにかなるんじゃないかという期待もあった。
――悲しませたく、なかったのに。
魔力量はゲームのように数値で見えるわけではない。それでも生命に関わることだからか、自分の危険水域はなんとなく分かる。後悔しないために、自分は行動してきた。それでも。
――怖いな。
張りつめていた糸が切れたようで、手足を動かせない。ロウソクの芯が無くなったように力が入らず、エリシャの手を落してしまった。傾いた視界のなかで、光の粒が血だまりのように広がっている。
――まだ。
エディは無事で、セレナは聖女ではない。魔物に怯えることなく、皆安心して暮らしている。自分は偽聖女でも、従者でも、神官見習いでもない。それでも、この身一つで帰っても、きっと迎えてくれるだろう。そうしたら、そうしたら。
――ばかだなぁ。
最初に思い浮かんだ顔。次いで、セレナの言葉がよみがえる。
『全部が終わっても、逢いたいな、一緒にいたいなって人がいたら。その人がきっと』
本当に、全部が終わった時に自覚するなんて。刃で裂けた傷とは異なる痛みに、目が熱くなった。胸が締め付けられて、うまく呼吸ができない。
想いを返せなかった。無事に戻れなかった。約束を破ってしまった。
――利用した、罰なのかな。
涙がこぼれ落ちたとき、おびただしい光の粒はやわらかにふくらみ、繭のようにジルを包み込んでいった。
「エディの死亡回避ルート、やっぱり無いかぁ」
ゲームのコントローラーから手を離し、ため息をつく。注視していた画面では仲間の一人である少年が、今まさに息を引きとっていた。
一作目のおさらいは済んだから次は二作目、とゲームソフトに手を伸ばしたところで。
「少年?」
違和感を覚えた。いま死んだのは本当に、従者のエディだっただろうか。疑問の答えを探すために顔を上げれば、ゲームの画面は真っ黒になっていた。
「えっ、待って、ゲーム壊れた!?」
(初めから、そんなゲームは存在しない)
背後から幼い少年の声がした。途端に頭のなかで、知らない場所と知っている場所がぐるぐると交ざりあう。画面も、コントローラーも、ゲームソフトも何もかもが黒くなり、輪郭が消えてゆく。
広いのか狭いのかも分からない黒一色の世界に、ジルたちはいた。
(でも、そういったゲームは存在したのかもしれない)
闇の精霊クノスは興味深そうに銀色の目を眇めた。
(魔素を介してぼくが与えた情報。それを処理しようとして、君のなかにあった記憶と、無理やり結びつけたのかな)
「存在しない? でもゲームの通りヒロインは現れて、攻略対象も同じだった! それにエディは、聖女の従者は、」
(斬られたのはジル)
――そうだ。死んだのは、私だ。
影も映さない黒の空間。いまの自分は、立っているのか倒れているのか、浮いているのか落ちているのかも分からない。ただ、死んでしまったという昏い真実が、目の前に広がっていた。
残してゆくのと残されるのでは、きっと、残される方がつらい。
「初めから……初めから死ぬのは、私だったの?」




