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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
309/318

308 祭壇と聖女

 耳を疑う発言にいち早く反応したのは他でもない、今代聖女に深く心を傾けている前総大司教だった。


「何を仰っているのですか?」


 樺色に白髪の交ざった頭を振り、青鈍色の目を見開いたアルヴァは明らかに狼狽えていた。異端者をここまで案内したアルヴァは、エリシャからなんと聴かされていたのだろうか。頭上から注がれる視線に、黒髪の少女はことりと首を傾げた。


「アルのいない此処に、なんの価値があるのかしら」


 十二歳の姿をした聖女は瑠璃色の天窓を見上げ、祈りを捧げるように両の手を重ねる。


「あんなにも、追いつきたくて堪らなかった歳が……並んでしまったの」


 高い天井の向こう側、遠い空の涯てへ話しかけているような、ゆったりとした声だった。どこか遠いところへ向いていた視線が、おもむろに地へ落ちる。


「どうすれば、この無意味な生命(じかん)が終わるのか。自傷、暴利、暴行、姦淫。色々と試したわ」


 仄暗い裾が床を這い、ジルとの距離が一歩近づく。


「民の安寧を護るのが聖女なら、それを壊す存在になればいいと分かったの」


 女神ソルトゥリスに愛された色。金色の瞳をもつ少女は、教徒たちの願いを受け止めるように、そのすべてを打ち捨てるように両腕をひらいた。


 きっと、歴代の聖女もこうして堕ちていったのだろう。老いない体から解放されるには、病に罹るほかない。


 エリシャも被害者なのだ。それでも――。


「なぜ、子供を狙ったのですか」


 聖女が有する魔素の浄化能力はここ、ソルトゥリス教会の総本山を中心に各領地へと広がっている。恩恵にあずかっているのは子供だけではないのだ。大人だったらいいという訳ではないけれど、聖女を閉じ込めている本元はすぐ近くにいるのに。


 ――エディを選んだのは、聖女様の意思だ。


 拳を握り込んだジルに対してエリシャは、御用聞きの商人へ言い付けるような気軽さで答えた。


「子供は未来でしょう。わたくしには無かったから、連れて来てってお願いしたのよ」


 注文通りの品が届いて嬉しい。そんな微笑みを浮かべて少女は長い髪を揺らした。


 選ばれたその日から、聖女は家族と引き離される。

 聖女は望むだけ夫をもてるけれど、例外なく子はいない。

 自身は老いないけれど、愛する人は老いてゆく。

 今代聖女が夫として迎えた唯一の人、護衛騎士のアルデルトは、十年前に他界していた。


「あなたの手で、わたくしを終わらせてちょうだい」


 少女の唇が織り上げたのは歓喜と悲哀の叫び。未来()を希求する金色の瞳は期待に輝いている。

 アルデルトに置いてゆかれたエリシャは、愛する人と同じ髪色をもつ子供に両手を伸ばした。


 その手をジルは――。


「お断りします。僕は、……私はあなたを生かしにきました」


 言い終わるのと同時に空気が濃くなった。


 燭台を背にした聖女の影が伸び、ゆらりと広がっていく。祭壇は夜に巻き戻ったかのような黒い靄に包まれ、二つの金色が浮かび上がる。


「わたくしは、望んで生まれてきたわけじゃない。聖女になりたいと、望んだこともない」


 耳鳴りにも似た、鈴のような声が祭壇に鳴り響く。


「死ぬときくらい自分で選んでもいいじゃない……っ! 命令よ、わたくしを殺しなさい!!」


 聖女の命令を耳にした瞬間、従者の首元にピリッとした痛みがあった。ジルに起きた反応はそれだけで、従者の体は指一本も動き出さない。


「どうして従わないの!? おまえも従属の契約に縛られているのでしょう!」


 理解できないと今代聖女は闇色の髪を振り乱した。


 セレナと引き合わされたあの日、ジルは確かに従属の契約を聖女と結んだ。エリシャも聖女の儀式へ旅立つ前に、誰かと従属の契約を結んだのだろう。


 だから周囲の誰もが許さなくても、次代の聖女が連れてきた従者ならば、自身の願いを叶えてくれると信じていたのだ。しかし。


「聖女様と同じ魔力を、私も持っています」


 水の聖堂で待機しているとき、ジルとセレナは効力を検証していたのだ。結果、従属の契約は無効であることが分かり、ラシードも珍しく眉をひらいていた。


 最後の望みを断たれた。それを理解したエリシャは、幼い子供のように泣き叫んだ。


「かえして……っ! アルを返して。お家に帰して。わたくしの時間を還してよ……っ!! 返して、帰して、還して、かえしてかえしてかえしてかえしてかえして!!」


 聖女となって諦めたこと、我慢したこと、耐えてきたこと。民の犠牲となったエリシャの心が涙となり零れ落ちていく。


「――嫌い、みんな嫌いよ!! ぜんぶ壊れてしまえばいい!! アルヴァ、あいつを殺しなさい!!」 


 エリシャの細い指先が銀髪の従者をさしたそのとき、闇を裂くように天から一条の光が差し込んだ。


 前総大司教の手に握られた白刃が光を反射する。

 頭上に放たれたセレナの矢がステンドグラスを穿った。


 天窓から降りそそぐ黄色や橙色。女神ソルトゥリスを象徴する色ガラスの破片は光の粒となり、磨きあげられた石床に積もることなく消えてゆく。


 その光のなかで、少女と男性を背にかばい、ジルは両手を大きく広げていた。


「言ったでしょう。先に、倒れるつもりはありません」


 ジルの体に奔った紅いわだち。これは自己回復で治るのだと、安心させるように微笑んでみせる。振り下ろされた大剣の持ち主、黒い騎士服をまとったラシードは、驚きに朱殷の双眸を見開いていた。

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