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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
308/318

307 身廊と総大司教

 ひらいた扉の先には、仄暗い空間が伸びていた。左右の壁に据えられた小さな常夜灯が、立ち並ぶ白柱をぼうっと浮かび上がらせている。


 先ほどまでいた白い廊下との輝度差に目が眩む。だから暗さに慣れていない瞳が、光の残像を映しているのだと思った。


 身廊に浮かぶ灯りが虚像ではないと分かったのは、ラシードが大剣を構えた後だった。宝石のような魔石をはめ込んだ燭台を手に、濃い緑色の裾が近づいてくる。差し向けられた刃に目を留め、ゆるく頭を振った。


「貴方がたの口は、名の紡ぎかたを忘れてしまったのですか」


 倒れた衛兵へ視線を向けた白髪まじりの男性、前総大司教のアルヴァ・オーサーは無作法だと嘆いた。


 まるで、名乗れば衛兵はジルたちを通したような物言いだ。もしそうなら異端者の侵入を知っていたことになる。ならば、その指示を出したのは目の前の人物で。


「どうして」


 ジルの口は、その一言しか紡げなかった。


 自分たちは聖女を解放しようとする異端者で、聖女を継承するヒロインや随伴者ではない。ソルトゥリス教会からすれば招かれざる客のはずだ。それなのにアルヴァは、近衛騎士の一人も伴っていない。


「どうして、とは。私が総大司教の法衣を着用していることへの不満ですか。それとも、貴方がたの動向を把握していたことへの当惑ですか」


 静かに淡々と問う声音から感情は窺えない。それでもジルを見て眉を顰めた様子から、アルヴァに歓迎されていないのは分かった。


 即座に拘束されなかったということは、少なくとも、公的にはまだ総大司教である目の前の人物は異端者たちに用があるということだ。ここは話を合わせて、時間稼ぎをしたほうがいい。ジルはラシードの腕に触れ大剣を収めて欲しいと首を振った。冷たい剣先はなかなか動かず、ジルが手に力を入れてやっと下を向く。


「ご存じでありながら、見逃してきた理由はなんでしょうか?」

「内通者の正体を知るのは恐ろしいですか」


 ソルトゥリス教会へ情報を漏らした裏切り者がいる。その真実から目を逸らすのか。仄暗いガラス玉のような双眸がひたりと張り付く。その問い掛けに、ジルは笑みを返した。


「僕は皆さんを信じています」


 大神官や神殿騎士たちは違う。


 聖女の儀式に同行していない者が、なにを報告していたのか定かではない。ここで正体を明かすなどして、わざわざ情報の正確性を示す必要はない。


 向かい合ったジルとアルヴァ。二人の間にある燭台の光源がロウソクなら、ジリジリと芯の燃える音が聞こえてきただろう。長い沈黙は、前総大司教がまぶたを下ろしたことによって終わった。


「なるほど。――聖女エリシャ様がお呼びです」


 唐突な案内に三人は息を飲んだ。含みのある呟きも気になったけれど、その後に続いた言葉の衝撃が大きい。反応が追いつかない異端者に構わず踵を返したアルヴァは、来た路を辿るように身廊を歩き始めた。その足取りは存外速く、深緑色の法衣はみるみると薄闇に包まれてゆく。


「エディ君」


 その背を目で追っていると、控えめに袖を引かれた。聖女の祭壇へと続く扉をくぐってから想定外のことばかりが起きているのだ。戸惑うのも仕方がない。しかし、ジルに引き返す道は無いのだ。


「やることは変わりません」


 笑顔で頷いてみせれば、沈みかけていたセレナの瞳にも力強さが戻った。


 当初の作戦では、魔王の封印を解いたその足で聖女の居室へと乗り込む予定だった。その順番が入れ替わった、否、目標が同じ場所に揃っただけだ。


 小さくなった燭台の灯りを追って歩を進める。ジルが踏み出すたびに二人分の足音もついてきた。


 自分は独りではない。ここにいるセレナとラシード。弟の保護に向かったデリック。各領地の神殿で待機しているルーファスやファジュル、クレイグにナリト。皆の助けがあったから、ここまで来られたのだ。


 義父から貰った魔法石は、すぐに使えるようケープコートの下につけている。


 ――大丈夫。


 胸元から手を離したジルは足を止め、小さな人影を見据えた。


「嬉しい」


 それは鈴の鳴るような、愛らしい声だった。


「ずっとずっと、待っていたの」


 祭壇の前に立った少女は射干玉の髪が床に触れるのも構わず、太陽のごとき金色の目をうっとりと細めている。背後に置かれた燭台は、仄暗さを含んだ純白の法衣にまだら模様を落していた。


 窓の外は藍色。陽はまだ昇っていない。


「身に余る光栄です。ご用向きをお伺いしても、よろしいでしょうか」

「聖女エリシャ様の御前です」


 エリシャの目的はエディだ。だから次代の聖女ではなく、ジルが応えた。一介の従者が起立したまま話し始めたのが気に障ったのだろう。今代聖女の傍に控えた前総大司教は静かに鋭い口調で、両膝をつき礼拝するよう求めてきた。


 ソルトゥリス教会の権威が睥睨するその隣で、エリシャは口元に手を当てくすくすと笑いを零した。


「いいのよ、アルヴァ。この子は今から、わたくしを殺すのだから」


 夜が薄らいできた聖女の祭壇で、御年五十一となる少女はとても嬉しそうに微笑んだ。

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