306 廊下と衛兵
水の聖堂二階にある応接室から廊下に出れば、まるで教会領の空気が流れ込んできたような、ひやりとした夜気が足に絡みついた。シャハナ公爵家の息がかかった衛兵は無言で扉をひらき、聖女一行を転移陣の間に通す。
小さな換気窓から滲む夜は魔石ランプに阻まれ、部屋は温度のない光に満たされていた。明るさに目を慣らし皆が魔法陣に乗ったのを確認したジルは、あらかじめ傷をつけていた掌を足元にかざす。
自己回復とともに、ずるりと体のなかから魔力が引き抜かれ、落下するような浮遊感に襲われた。ルーファスの見立て通り、遺失魔法は光の精霊ソルトゥリスの力に反応し、四人を正しく目的地へと運んだ。
リシネロ大聖堂の最上階。尖塔に設けられた、四つの魔法陣が刻まれた広い空間に人影は無い。窓から望む空には濃紺色の幕が引かれ、地上はまだ夜に沈んでいる。
女神ソルトゥリスの権現たる聖女がおわす聖堂棟。この時刻にここで起きている者はジルたちを除けば、夜番の衛兵や近衛騎士くらいだろう。人の出入りが多い昼間に比べれば警備は薄い。その薄いなかでも更に手薄なのが。
「気抜き過ぎ」
「外の領地から転移できるのは、聖女様だけですから」
扉をあけるや否やデリックは衛兵を昏倒させ手足をロープで縛り上げた。転移陣は大神官から上の役職であれば使用できるけれど、それは教会領から他領への一方通行だ。衛兵もまさか他領から聖女以外の者が転移してくるとは思いもしなかったに違いない。
これはソルトゥリス教会共通の認識だ。内部からの侵攻を想定していないため、扉を護る衛兵を除けば、聖女の祭壇へと至る路に障害はない。
「弟を、よろしくお願いします」
ここからデリックは別行動となる。黒地に橙の差し色が入った神殿騎士の背中へ、ジルは限界まで頭を下げた。窓の外よりも暗い視界に注がれたのは。
「任せとけ」
朝飯前だと言わんばかりの明るい声だった。デリックに任せておけば大丈夫だ。ジルの瞳に、人好きのする笑顔が映る。手袋をはめた大きな左手が、ひらりと揺れる。
「また後でな」
部屋を出て行ったデリックの背中は薄暗がりに溶け、一瞬で見えなくなった。遠く地上の方でした葉擦れの音を背に、セレナとラシードを振り返る。
「私たちも行きましょう」
三人はリシネロ大聖堂の最上階にある転移陣の間から、最小限の音、最大限の速さで駆けた。視界の先では衛兵が二名、閉ざされた扉を護っている。
白い大理石の床が眩しい。長い長い廊下に、魔石ランプの白い光が折り目正しく灯されている。参拝に訪れる教徒達は当然いない。生物の一切が眠りについたような静謐が、そこに横たわっていた。
今、この場で動いているのはジルたちだけだ。三人分の靴音が、静止した空気を破る。
彫像のごとく立っていた衛兵たちが槍を握り直した。警戒しながらも呼び子を吹かなかったのは、近づいてくるのが正装した神殿騎士と女性神官だったからだろう。ジルは二人の背後につき、ゆっくりと廊下を進む。
衛兵の前を通り過ぎようとしたそのとき、一本の長い槍が進路を塞いだ。
「どちらまでお越しですか」
「あの、この子を……連れて来るように、と」
誰に命じられ、どこへ行くのか。衛兵の威圧に動揺した女性神官が答え忘れても不思議はない。セレナは半歩身をずらし、後ろにいた従者の姿を衛兵たちにさらした。
瞬間、体勢を低く構えていたジルは白い床を蹴った。頭上で広がった黒い布の下を駆け一本目の槍をくぐった。その先では、愚かな異端者を貫かんと柄の長さを最大限に活かした突きが迫っている。
しかし、二本目の槍もジルの侵攻を阻みはしない。
「な゛っ」
ジルは鋭利な穂先を飛び越え、そのまま柄に足をつけた。目標までまっすぐに伸びた棒はちょうどいい踏み台だ。驚愕に目を見開いた衛兵の首元を狙い、ジルは鞘ごと短剣を叩きつけた。
鈍い衝撃に手が痺れた。自動回復を抑えていないジルの魔力は、たちどころに痺れを消す。なにも悪くない人間を攻撃したのは、これが初めてだった。
「お、もぃ」
「すみませんっ」
苦しそうな声にハッと意識が戻る。軽装とはいえ鎧を装備した衛兵が倒れ込めば大きな音が出る。それを防ごうとしたセレナは下敷きになりかけていた。慌ててジルも支え、慎重に床へと衛兵を横たえた。すると、ちょうど一人目の衛兵を拘束し終えたラシードが縄を持ちやって来た。
ジルが駆け出したのと同時に神殿騎士は羽織っていた黒マントを投げ、死角を作った。それに驚いた衛兵が態勢を立て直す前に気絶させる、というのが予め決めていた作戦だ。
拘束した二名の衛兵を明るい廊下には放置できない。ジルは白く重厚な両扉に左右の手をついた。
ソルトゥリス教会の総本山であるリシネロ大聖堂は、どこも手入れが行き届いている。だから錆びついた扉のように力を入れる必要はない。それなのに、遅々として扉が動かないのは。
「私はこっちを押しますね」
ジルの右隣には微笑んだセレナが立っていた。水蜜の瞳は使命感に輝き、まったく臆していない。
「ありがとうございます」
自分がここで怯んでどうする。セレナのやる気に背を押され、ジルは扉を押しひらいた。




