305 不服と決行
神殿を訪れたその日は教会という名の管理小屋に一泊し、以降は水の聖堂で寝泊まりをしている。ここに居るのはジルとセレナ、ラシードにデリックだけだ。
公爵邸に戻っていたナリトは、祈祷の振りをするために十九日に聖堂を訪れたけれど、当日のうちに帰って行った。その際、各領地にいる大神官には伝達済みであり、予定通りに進めて構わないと報告を受けた。
決行の時は、臥ノ月二十二日だ。
湖上に建てられた水の聖堂はひっそりとしており、暗い窓からは子守歌のような水音が流れ込んでいる。薄暗い大神官の居室に集まった聖女一行は膝を寄せ合い、作戦の確認をしていた。
「やっぱさ、戦力を割くのは悪手だと思うんだ。オレらが行くのエディは知らないんだろ?」
「知らないから、近づいてしまうかもしれない。その偶然を潰したいんです」
リシネロ大聖堂に転移したあと、デリックにはエディを見張って欲しいと頼んでいた。ソルトゥリス教会からみればジルたちは、体制基盤を揺るがせる異端者だ。聖女の祭壇へとつづく扉の前には衛兵がおり、別室には近衛騎士たちが詰めている。ラシード一人では対処しきれないとデリックは危惧しているのだろう。
ゲームでは、聖女の世代交代というソルトゥリス教会の意向が働いていた為、なんの障害もなく祭壇へとたどり着けたのだ。
「それと万が一、エディが拘束されそうになった時は」
「連れて逃げるんだろ。誰にも追いつかせないように」
「お願いします。これは、デリック様にしかできません」
デリックが訴える不服の原因は、別行動だけではないとジルは分かっている。分かっていて、温室での言葉を利用したのだ。自分になにかあっても、デリックはきっと専属従卒にした弟を大切に扱ってくれるだろう。
とはいえ、寄せてくれた想いを踏み台にして胸が痛まないわけではない。
「ご希望は決まりましたか?」
見張りの件は水の聖堂に居を移した時に伝えており、ジルの願いをきく対価はなにがいいかデリックに訊ねていたのだ。それから一週間以上が経過しているけれど、答えはまだ聴けていない。
時間は限られているのだとデリックを促すようにじっと見詰めれば、深緑の瞳はすっと下に逸れた。と思ったらぐるりと斜め上を向く。苦いものをすり潰すように口が動き、ぴたりと止まった次には。
「あの返事は、ジルの口から聴かせて」
いつもの明るい笑顔が現れた。三度目の求婚の件を言っているのだろう。デリックは別行動をしたくなかったのだから、なにも考えていなかったに違いない。
「お返事と見張りは別件です。他にありませんか?」
「他にっても、オレはジルが笑ってくれたらそれでいいしなあ」
「っ」
さらりと零されたのはきっとデリックの本心だ。初めて求婚された時の言葉も合わせて思い出してしまい、ジルの顔に熱がのぼった。
――相談してから変だ。
小さな舞踏会の前夜。セレナやファジュルと話し、自分の未来を意識してしまったからだろうか。少しでも熱を冷まそうと頬に両手を当てていると、ジルの隣で勢いよく片手が上がった。
「私、お手洗いに行ってきます! ラシード様、護衛お願いします。すぐに戻りますね」
青白い顔でソファに座り込んでいたセレナが宣言したかと思えば立ち上がり、護衛騎士の腕を引いて応接室を出て行った。口を挟む隙もなく、カチャリと静かに扉が閉まる。灯りを絞った魔石ランプが承和色の壁をほのかに照らす室内には、ジルとデリックだけが残った。
「逆にきつくね?」
湖面を撫でるような水音に小さな声が交った。腕を組んだデリックは両目を閉じ、祈るように天井を仰いでいる。戦力の分散を気にしてるのだろうか。しかしここはまだ、教会領ではない。
「すぐに戻っていらっしゃるそうですから、心配はいりませんよ」
「そうだな」
ジルに同意を示しながらもデリックの両腕は固く結ばれたままだ。
「……あの」
「ん?」
「私も、デリック様が笑顔になれるものをお返ししたいです」
皆と過ごした時間を思い出せば、自分はいくらでも笑える。
立ち上がったジルはソファに座ったデリックへ近づいた。拒絶されるだろうか。いや、求婚されているくらいなのだから大丈夫だ。でも、デリックから求められたことは、一度もない。
不安を微笑みで隠したジルは神殿騎士の腕を解き、左手を掬い上げた。デリックの手袋に指をかけ、丁寧に脱がせていく。
「嫌だったら、振り払ってください」
訝しげに見上げていた深緑の瞳は揺れたけれど、制止の言葉は紡がれない。しばらく待ったのちに、ジルは手元に視線を落とした。
領民を護り、姉弟を助けてくれる大きくて強くて、やさしい手。ジルは鍛練の滲んだ手を引き揚げ、指先にそっと口付けた。触れていた指がぴくりと動き、唇が形を変える。
「ジル」
自分が選んだものなら、何でも嬉しいとデリックは言った。喜んでくれるものを、少しは返せただろうか。名を呼ばれ顔を上げた直後、デリックのうめき声と扉を叩く音が重なった。
「戻りましたー」
「生殺しツライ」
笑顔で応接室に戻ってきたセレナに反して、無表情のラシードは面白くないといった気配をまとっていた。斯くして皆は所定の席につき、話し合いは再開された。
「セレナ神官様は、ご自分のことだけに集中してください」
「責任重大だもんね」
図らずも休憩をとったのが良かったようだ。凝り固まっていた空気は適度な緊張感に変わり、隣に座ったセレナの顔にも血色が戻っていた。小振りな弓を握る手にジルは両手を添える。リングーシー領で初めて弓に触れてからこれまで、セレナは稽古を怠らなかった。
「練習を続けてきたセレナ神官様なら、大丈夫です。私とラシード様で、必ずお護りいたします」
「ありがとう、エ、ジルさん。私、頑張ります!」
ジルの振りをしたエディの未来もかかっているのだ。弟に対して、なんらかの感情を抱いているセレナにとっても他人事ではないのだろう。
成功したらセレナは聖女の役目から解放され、実家のリンゴ農園を継げる。聖女の儀式は二つしか終えていないため、憧れだった両親のような家庭を作ることも可能だ。
失敗したら。
――しない。私がさせない。
笑顔で頷きあったジルとセレナの背後で、時計の針がやけに大きな音を立てた。
「時間だ」
静かに告げたラシードは黒マントを羽織り、大剣に手を掛ける。
決行の時は臥ノ月二十二日の未明、今だ。




