304 水の神殿
それどころか瀑布に飛び込むのは自殺行為だ。ジルは自動回復を全解放してネディーネが作り上げた流れる路にうずくまった。膨大な落水音が耳をつんざく。水の塊は猛烈な勢いでジルの体を。
(着いたのよー)
滝は骨を砕くどころか、一滴も落ちてこなかった。状況に取り残された心臓だけが水のなかで空気を探すようにばくばくともがいている。
腕のなかから飛び出したネディーネは指揮者のように両手を動かし、濡れていたジルの服を乾かした。
深呼吸しながら立ち上がったジルの眼前には、半球型の屋根をもつ白い建物が座しており、周りは白く煙る流水の壁にぐるりと囲まれていた。流されるまま目を閉じ小さくなっていたジルには、どうやって滝を越えたのかさっぱり分からない。分からないけれど、成すべき事は分かっていた。
――早く戻ろう。
滝の外で待つ皆に水の精霊とジルの会話は聞こえていない。説明もなく叫び声を上げてしまったため心配させているだろう。水の神殿でおこなうことは二つ。クレイラの浄化と、祭場へと続く扉の解除だ。
神殿はどこも同じ造りをしている。迷わず宝物庫に足を踏み入れたジルは長剣を構えた。
魔石ランプに照らされた白い空間。その部屋の奥に据えられた五角形の低い台座の上に、種の交ざった魔物は配置されていた。蛇の頭に、蠍の尻尾。牛を思わせる体には、鎧が装着されている。
水の神殿にいるクレイラの弱点は水魔法だ。しかし、ジルは聖魔法しか使えない。それでも一人で戦うしかないのだ。
「危ないから、ネディーネは下がってて」
浄化をするにしても、まずは魔物を弱らせる必要がある。クレイラに接近せんと地を蹴ろうとしたそのとき、ジルの視界は青色に染まった。ふよふよと浮いた小さな背中が、行く手を遮っている。
(この子たちは、泣いてるだけなのよ)
「泣いてる……?」
哀しんでいるような、苛立ちを含んだネディーネの言葉にジルの体勢は戻っていた。蛇の頭部をもつクレイラは確かにシューシューと鳴いている。しかしそれは、威嚇音にしか聞こえない。
(魔素はごはんだけど、食べすぎちゃうと苦しいの。でも、ルゥがいなかったから……)
光の精霊ソルトゥリスがいれば、体内の魔素を浄化できた。あるいは、魔素を過剰に溜めこむ状況は起きなかった。水の精霊ネディーネはそう言いたいのだろう。
――嘘じゃ、なかったんだ。
魔力量の多い大神官が毎月祈祷をおこなうのは、本当に魔物化を防ぐためでもあったのだ。しかし今は祈祷をおこなっていない。それなのに、大神官たちに異変がみられないのはなぜだろうか。
(だからわたし、あの子たちを眠らせてあげようと思ったの。でも、何回やってもだめだった。ヒトが来たあとは、起きあがってて……いつもそこで、泣いてるのよ)
水面のように揺らめく服の裾を震わせて振り返った水の精霊も、泣いていた。魔法ではない水の粒が、ぬいぐるみのような瞳からぽろぽろと零れては宙に溶けていく。
助けたいのに、楽にしてあげることもできない。苦しんでいる声を何年、何百年と聞き続けるしかないのは、どんなにつらいことだろう。だから土の精霊ムーノは、この部屋を恐れていたのだ。ヒトならとうに狂っていてもおかしくない。
ジルは握っていた長剣を鞘に収め、ネディーネを抱きしめた。
「たくさん攻撃させて、ごめんなさい。ちゃんと解放するから、少しだけ待ってて」
労わるように小さな頭を撫でれば、うん、と返事があった。宝物庫の出入口に水の精霊を残し、ジルはクレイラへと足を向ける。一歩近づくたびに、魔物の声は激しさを増していく。ジルにはそれが今でも威嚇されているようにしか聴こえない、けれど。
――攻撃してこない。
警戒するように反り返った蠍の尻尾。強く張りつめた牛の四肢。蛇の口を大きくひらき牙をむきだした姿はまるで。
「気付けなくて、ごめんね」
怖がりながらも、助けを求めているように見えた。
風、火、土の神殿。クレイラとの戦闘を思い返してみれば、いつもこちらから攻撃を仕掛けていた。魔物だから、扉の鍵を持っているから、倒すのが当然だと思っていたのだ。
クレイラが囚われている台座の前でジルは左袖をまくり、腰から引き抜いた短剣を素早く肌に奔らせた。一拍置いて、腕にひりつく痛みが這った。ルゥと同じ力を持つ血のにおいに反応したのだろう。クレイラは鋭い牙でジルの腕をくわえ込み、救いを呑み込もうと必死に喉を動かしていた。
短剣から手を離し、鱗に覆われた額を撫でる。
「おやすみなさい」
腕の傷から溢れた聖魔法はクレイラの咥内を満たし、胴へと流れ込んでいく。尻尾の先まで光に包まれたとき、種の交ざった魔物は景色へ溶けるように音もなく消え去った。
足元に、ゴトンと無機質な塊が落ちる。生き物たちを縛っていた鎧の内側には予想通り、魔法陣が描かれていた。
(あの子たち、もう泣かない?)
「泣かせない」
短剣を拾い上げた手に力が入った。金属で金属を削る。遺失魔法に傷をつける不快な音は、クレイラを浄化する時間よりも長く響いた。
二体のクレイラを解放し、祭場へと続く扉を解錠したジルは皆の元に戻った。
水の神殿を囲む滝の壁。そこを越えるときに水が一滴も落ちてこなかったのは、ネディーネが膜を張るように弾いていたからだった。
水のトンネルから歩いて出てきたジルに一同は安堵の表情をみせ、ケガはないか、何があったのかと駆け寄ってきた。心配をかけたと詫びたジルは皆に三つのことを伝えた。
クレイラを浄化し扉の解錠をおこなってきたこと。
両手の文様を掲げれば各神殿へ入れるようになったこと。
神殿の周囲では、絶対に魔法を使用しないこと。




