303 ヒトと人
目の前にいる水の精霊が、力を使っているとは思えない。だからジルは、自分にも見えない精霊がいるのではないかと推測した。ルゥの精気を護っているムーノ、ネディーネ、サンラド、フィニルを仮に大精霊とすれば、お腹をすかせている子は、中や小に分類される精霊だろう。
――ヒトが魔素を浄化してるから、ご飯が足りないんだ。
ルゥやクノスを捕縛したことだけが、理由ではなかった。食べる物が無くなる恐怖を、ジルは痛いほど知っている。ヒトは嫌いだと精霊が言い続ける気持ちを、ジルは理解できてしまった。いわば生殺与奪の権を、ヒトに握られているのだ。
それならなおさら、闇の精霊クノスの封印を解かなくてはいけない。そのためにはネディーネたち、神殿を封鎖している大精霊の助けが必要なのだ。
ジルはナリトの胸へ押し付けるようにして上着を差し出した。
「お返しいたします」
「私はこのままで構わない。女性が体を冷やすものではないよ」
「着ていると動きづらいので。セレナ神官様も、そのまま預かっていてください」
遠慮とは違うジルの物言いになにかを察したのか、押し問答は発生しなかった。ラシードやデリックは変わらず警戒を続けており口を挟んでくる様子はない。ジルは背を向けた水の精霊を見上げた。
「神殿のなかに、鎧をつけた魔物がいるのは知ってるかな?」
(ヒトに捕まった、かわいそうな子たち)
その言葉を耳にした瞬間、寒気がした。次いで吐き気が襲ってきた。
ずっと、違和感があった。種の交ざった魔物は神殿にしかいない。さらに、鎧という人間の手で作り出された防具をつけた魔物も、神殿でしか見たことがなかった。なによりなぜ、聖女の儀式に必要となる鍵を魔物が護っているのか。
――許せない。
違和感の正体が分かった。種の交ざった魔物、クレイラはソルトゥリス教会が作り上げたのだ。侵入者を排除するために、聖女の儀式をもっともらしく演出するために。鎧に遺失魔法を施し、無理やり魔物たちを繋ぎ合わせているのだろう。
握り締めた手が、小さく震えた。
ネディーネの言葉を聴くまでは、魔法を使わずに魔物を討伐してみせる、と言うつもりだった。
「私が、その子を解放する。このヒトたちに魔法は使わせない。だから一日だけ。一日だけでいいからクーを助けるために、ネディーネたちの力を貸して欲しいの」
魔素を生成するクノスの名に反応したのだろう。水の精霊が振り返った。
(助けるのに、ヒトを通す意味がわかんない)
「神殿には、光の精霊の力が封じられているでしょう? クーはそれのせいで動けなくなってるの。私が言ったヒトは、その仕掛けを壊してくれるんだよ」
(だったら今から壊して、精気をとり戻したらいいじゃない)
早く行こうと急かすように、ネディーネはぐるぐるとジルの頭上を旋回した。氷瀑によって冷やされた空気がちくちくと肌に刺さる。もっともな言い分だけれど、できない理由があるのだ。
「四つの神殿を順番に回ってたら時間がかかって、悪いヒトにみつかっちゃう。だから全部、同じ日に壊さなくちゃいけないの」
(両手が光るヒトは悪くないの?)
ぴたっと空中で停止し、上からじっと観察してくる水の精霊へジルは自信を持って頷いた。
「みんな、私の大切な人」
改めて口にしてみれば、じわりと胸にあたたかさが滲んだ。ゲームの夢をみた時は、こんな想いを抱くなんて想像もできなかった。
「だからケガをして欲しくない」
身体を強化する魔法が使用禁止なら、攻撃や防御に関する魔法も当然ネディーネは嫌がるだろう。いつもの癖で、咄嗟に、なんて理由で魔法を使ってしまったら、水の精霊の信用は得られない。
水の神殿にいるクレイラの弱点をつけないのは痛手だけれど、自己回復しながら戦えば浄化もできるため悪い事ばかりではない。腰に下げた長剣へ手を掛けながら、ジルは皆を振り返った。
「ここで待っていてください。神殿の魔物は私一人で浄化します」
「私も行きます!」
「一人はダメだ」
「魔法無しでも戦える」
「君の盾くらいにはなれるつもりだよ」
言い終わるや否やセレナに手を握られ、デリックとラシードには進路を阻まれ、ナリトからは再び上着を掛けられた。気持ちはとても嬉しい。でも。
「足手まといです」
ジルは敢えて厳しい言葉を選んだ。セレナの手を剥がし、上着をナリトへ返す。
セレナの戦闘力は低く、聖魔法は光の精霊の力であるため使えない。対して、騎士たちの戦闘力は高い。しかしそれ故に不都合だ。デリックやラシードに護られていては、クレイラを浄化できない。ナリトに庇われるのはもってのほかだ。ジルは複数の対象を同時に回復できない。
傷を負わせてしまったら、自分は間違いなく人間の治療を優先してしまう。
(大切なのにじゃまなの? 凍らせちゃう?)
ぬいぐるみのような青い体を傾げ、次いでネディーネは両手を掲げた。張り切りはじめた水の精霊へジルは慌てて頭を振る。
「大切だから、置いていくの」
(クーにしたのと同じことを、ヒトにもするのね。分かった。ルゥの言ったヒトは、通してあげる)
「本当に?! 信じてくれてありがとう!」
思いが伝わったのが嬉しくて、ジルは降りてきたネディーネを抱きしめていた。これで下準備はできた。あとは各領地で待機している大神官に伝えて、決行の日を待つだけだ。
(でも一日だけだから、今日は通さないのよー)
「えっ、いっ、うそうそうそうそちょっと待っ」
足元で水の音がしたと思ったら、自分の名を呼ぶ声は轟音にかき消されていた。瞬く間に流されたジルの体は今、雪解けで一気に増水したような滝に突っ込もうとしていた。
――溺れる!!




