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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
302/318

301 我儘と皮肉

視点:ジル◇教皇の近侍

 期待に満ちた可愛らしい声が広場に響いた。ひらりと弾む灰色、ゆらりとうねる紅色が近づいてくる。


「もしかしてデリック様、初めから踊らないつもりでした?」

「どうだったかなあ」


 はぐらかすように笑ったデリックはジルの手をセレナへ渡し離れていく。気を遣ったのか、踊れないのか。遠くなる背中を目で追っていると、視界に色が増えた。


 ナリト、クレイグ、ルーファス、ラシードも広場に姿を現している。中央に出てこないのは、セレナの時間だからだろう。その近くでは使用人たちが椅子やテーブルを運び込んでいた。どうやら次は皆で軽食を楽しめそうだ。


「で、決まったかい?」

「っ」


 耳元でかすれ気味の声に囁かれ肩が跳ねた。ジルの頬をくすぐるように、亜麻色の波打つ髪が触れている。振り向いた先では紅玉の瞳が艶やかに光り、黒子を飾った口元はにんまりと弧を描いていた。


 ――次は、いつか分からない。


「決めました」


 予想外だったのかファジュルの目が丸くなった。今度はジルが褐色の耳元で囁く。答えを聴いたファジュルはくつくつと喉を鳴らした。


「アンタも強欲だね」

「ただ、皆さんにご迷惑がかかるので……」

「聖女様の御下命なら喜んで従うさ。謙虚を装って何もしないヤツより、よっぽどいい」


 しなやかな指の背でジルの頬を撫でたファジュルは、先ほどの希望は自分から伝えておくと言い残し紅いドレスの裾を翻した。遠ざかるヒール音に入れ替わり、淡紅金の頭が傾ぐ。


「お話し、終わりました?」

「はい」


 お待たせいたしましたと微笑めば、セレナの顔も綻んだ。ジルの前でぴしりと姿勢を正し、ぎこちない動きでお辞儀をする。


「私と一曲、踊っていただけますか?」

「何曲でも喜んで」


 体の横で揃えられたままの右手をとり、ジルは手の甲へと唇を近づけた。


 ◇


 楽しい時間は過ぎるのが早い。小さな舞踏会はあっという間に幕を下ろした。


「あ、あはは」


 自分が望んだこととはいえ、目の前の惨状に思わず乾いた笑いが零れた。なにか怪しい儀式のようだ。


「苦労の跡が見えますね」

「聖女を蔑ろにはできない。主人の応援はしたいが、総大司教や大神官を下げることもできない。できた使用人たちじゃないか」


 温室を出たジルたちは居並ぶ使用人に迎えられ、こちらへと案内された場所は大食堂だった。長いテーブルや数々の椅子は消え、代わりにどーんと置かれていたのは寝具だ。


 さすがに八台は運び込めなかったのだろう。脚付きの寝台は部屋の中央に一つしかない。その寝台を囲むように、七つの分厚いマットレスが並べられていた。誰がどこを使うか迷わないように、足元には色付きの布が掛けられている。


 紫を中心に、北は橙、北東は赤茶、東は青、南東は桃、南西は赤、西は緑、北西は灰。


 大神官は領地に合わせて配置されており、神殿騎士たちが上部に集められたのは、女性であるファジュルやセレナを気遣った結果だろう。


『ジルさんがいるから、大丈夫です』

『ジルがいるのに手を出すわけがない』


 今夜は皆と一緒に眠りたい。そんな子供染みた我儘に、セレナとファジュルは二つ返事で頷いてくれた。寝台へ入る前に、ジルは皆へ頭を下げる。


「今日は、ありがとうございました。皆さん、おやすみなさい」


 笑顔で就寝の挨拶を告げれば、七つの反応があった。消えてゆく魔石ランプの数に反比例して、胸のなかには光が灯っていく。たのしい、うれしい、やさしい、あたたかい。ふわふわと心地良い寝台にジルはもぐりこむ。


 やがて一晩限り寝室に、夜の帳が降りた。


 ◇


「宜しいのですか、放っておいて」


 机上に置かれた魔石ランプは、熱のない光を放っている。


 ソルトゥリス教会は女神ソルトゥリスを君主に戴き、女神の権現たる聖女を崇めている。しかし聖女はあくまでも象徴であり、実権は持たない。実質の最高権力者である父親へ、近侍たる息子は初めての問いを口にした。


 深紫の法衣をまとった父親は、各所から届けられた報告書に目を落したまま答える。


「不都合なら消しておる。これまでのようにな」

「これも天啓であると?」


 顔を上げた教皇は慈悲深いと称される顔に、自嘲の笑みを浮かべた。


「人の業だ。私もあやつも、彼女に魅入られておるに過ぎんよ」

「魅了されるのは勝手ですが、なぜ私の代で」


 先のことを想像するだけでため息が漏れた。総大司教や枢機卿は任命制だが、遺失魔法を編み出した祖先をもつ教皇だけは世襲制だ。


「それこそ天啓じゃ」

「あの者を覚醒させたのはダーフィ猊下でしょう」

「私は迷える子供を導いただけじゃ。猊下などと傅かれておるが、衣の色が変わればただの神官でな」


 なにが面白いのか、教皇は丹色の目を細めほっほっと笑った。憎らしいことに、本家に残された書簡を紐解いても、現状と類似した事例は過去にも存在しなかった。


「お主は気のせいくらいに思っとるだろうが」

「大神官を見て疑うほうが難しいです」


 教皇の言葉を遮るなど不敬に他ならないが、ここには父子の二人しかいない。近侍は諦めの息を吐き、教皇の執務室を辞去した。


 ほんの数分でも、少女と会する度に自分でも感じていたのだ。魔力量の多い者ほど、浄化能力をもつ少女の傍が心地良いと感じるのは当然だろう。


 ――聖女が魔性とは、つまらない皮肉だ。

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