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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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299 紫と灰

 ――機嫌が良さそう?


 実はダンスが好きなのだろうか。見た目はいつもの無表情なのだけれど、まとう気配がどうにもふわふわと軽い気がする。四番手は聖女の護衛騎士であるラシードだった。


「ドレスというものは白か派手な色しかないと思っていた」

「華やかな場所に、灰色は似合わないですよね」


 ドレスは貴族令嬢が着るもので、社交界を彩る華だ。煌びやかな場に中途半端な色味は埋もれてしまうだろう。レースの上から灰色の生地を摘まんでみせたジルは、朱殷の瞳を見上げて淡く笑んだ。直後。


 ――機嫌が悪くなった。


 なぜかラシードの気配が重たくなった。瞳の奥に熾火のような耀きが灯り、カチャリという金属音と重低音な声が這う。


「それを言った奴は誰だ。ここの使用人か? 撤回させてやる」

「ち、違います違います! 私がそう思っただけです! 誰も言ってませんから、剣から手を離してください!」


 思いも寄らない反応にジルは慌てて両手を振った。刃のない儀礼剣であるのは分かっているけれど、騎士が振るえば立派な鈍器だ。今夜のラシードは大剣ではなく、華麗な装飾が施された長剣を腰に下げていた。


 均整のとれた逞しい長躯に、精悍な顔立ち。微笑のひとつでも浮かべていれば黄色い歓声が上がっているだろうに、ラシードの標準装備は無表情だ。そこへ怒気を含ませたなら、民間人は悲鳴を上げるどころか唇を震わせるので精一杯だろう。


 領民を護る騎士が、領民を襲う魔物になってはいけない。ジルは柄から離れたラシードの手をサッと掬いとり、長椅子の前から広場の中央へ行こうと足を向けた。


「そのマント、式典で着るものですよね。格好いいです。二十分しかないのですから踊りましょう」


 ラシードの衣装は、南方担当を示す赤い差し色の入った黒い騎士服のままだ。しかしその上に、飾緒や袖のついた黒マントを左肩にかけている。裾が長いのは見栄え重視で戦場では着用しないからだろう。すべり落ちないようにマントを留めている紐が。


 ――予想が当たったら当たったで、恥ずかしい。


 紫色だった。教会領にいた頃の自分なら気にも留めなかっただろう。ジルの瞳と同じ色を身に付けているということは、ラシードも貴族に倣っているのだ。きっと、灰色の生地から覗く虹色に自身の瞳と同じ色をみつけたから機嫌が良かった、違う。違うちがう違う。


 ――ああああ! やってしまった!


 ジルは神官見習いの法衣と同じ色だから、中途半端な自分を表しているようだからと選んだだけだった。意図を説明するべきか否か目を泳がせていると、握っていた手を後方に引かれた。


「他の奴はもっと気の利いたことを言うんだろうが……たとえ舞踏会の喧騒に紛れても、俺にはお前が一番輝いて見えるだろう」


 振り返り見上げた先には真剣な色を宿した朱殷の瞳と、灰色の髪があった。


 ――言えない。


「ありがとうございます。……踊らないのですか?」


 唇に笑みを刷き、ジルは右手の甲をラシードに向けた。しかし灰色の頭は一向に近づいて来ない。手順を飛ばしたのがダメだったのだろうか。ならば始めからと手を引こうとしたそのとき、ラシードの目が逸れた。


「踊れない」

「踊らない、ではなく?」

「戦闘にダンスは必要ない」

「そうですけれど……隊長格ともなれば、平民出身でも教養は必要ですよね?」

「魔物に教養はない」


 神殿騎士は魔物討伐が主な任務だ。しかし、教会領で夜会が開かれる時は警備に就くこともある。近衛騎士に推薦されるほどの実力と容姿を備えたラシードなら、来賓に紛れて身辺警護を任されることもあっただろうに。


「ははー、そうやってサボってたんですね」

「今は後悔している」


 ラシードの頭上に曇天がかかったように見えた。広場に来た時は、ジルが灰色のドレスを着ていると喜んでいたのに。ダンスに似たもので、なにかできる事はないだろうか。


 ――そうだ!


 ジルはラシードの腰に手を伸ばし、儀礼剣を鞘から引き抜いた。思った通り刃はついていない。


「手合わせをしましょう、ラシード様。私が右手で前方に剣を突いたら、左手で鞘を前方に突いてください。それを演奏に合わせてするんです」

「左右対称に動けということか?」

「はい。慣れてきたら好きに動いてください。私がケガをするような事はしないでしょう?」

「愚問だ」


 飾り帯から鞘を外したラシードは口を引き結んだ。同意を得たジルは蔦の幕が引かれた方へ向けて速めの曲をお願いする。並び立った二人が得物を構えて一呼吸、弦楽器の音色が流れてきた。


 跳ねるような音に乗ってジルが剣を突きだせば、間髪を入れず鞘も突きだされた。目が慣れていない者には同時に動いたように見えただろう。


 剣を薙ぎそのまま回転、カツンと鞘に打ち当たった。ラシードの口角が上がっているのが得物越しに見える。曲の緩急に合わせて打ち合う音も強弱を変えていく。


「さすがです。ここからはお好きにどうぞ!」


 息もつかせぬほどの演奏に休符が現れたとき。


「?!」


 ジルの視界が後転した。飛び込んできたのはガラスの天井、照らされた植物、広場の石床、最後にまたラシードの顔が映り、景色は流れ動いている。どうやら自分は横抱きにされた後くるっと反転させられ、今は縦抱きの状態でくるくると回転しているらしい。


「ふ、ふふ」


 なんて優雅さのないワルツだろう。それでも笑顔になってしまうのはきっと、自分と同じくらいラシードも楽しそうだったからだ。

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