298 紫と緑
軽食の並んだローテーブルが消え、クレイグの去った広場にやって来たのは、深緑をまとった人物だった。長椅子から立ち上がったジルは笑顔で出迎える。
「リンデン様は法衣のままなんですね」
「これが正装ですので」
そう言って微笑んだルーファスの肩には、紫色の帯が掛かっていた。本来なら総大司教の帯は、白色だ。
――さすがにもう分かった。
とんだ自惚れでなければ、あとに控えている神殿騎士たちもジルの瞳と同じ色をどこかに付けているのだろう。自分が貴族に倣って衣装を仕立てたように、皆考えることは同じらしい。
「ジル嬢のドレスは、貴女の心を映しとったようですね」
「そうなんです。灰色はどっちつかずな私にぴったり、だと……?」
ドレスの形はデザイナーの夫人にお任せしたけれど、色はジルが選んだ。灰色は曖昧な姿をよく現していると、ルーファスに褒められたと思ったのだけれど。ふわふわとした飴色の髪は左右に揺れている。
「僕には、恵みをもたらす雨に見えます。その雨が止めば、雲の切れ間に虹が架かる。そのドレスは、慈愛に満ちた貴女そのものです」
緑の瞳を眩しそうに細め、ルーファスはお辞儀した。
「僕にも、美しい虹をみせてくださいませんか?」
たくさんの色をまとうのは不誠実で、強欲そのものだとジルは考えていた。だから灰色の幕に隠して、でも嫌いではないとも伝えたくて。小狡さで繕ったドレスを、ルーファスは慈愛に満ちていると表現した。この人の心は、どれだけ綺麗なのだろう。
ダンスへの誘いに、ジルは右手を差し出した。
「本当に、リンデン様は神官の鑑のような方ですね」
「そうでしょうか」
「そうです」
譲らないジルに口を閉じたルーファスは、手の甲へそっと唇を近づけ、触れる前に顔を上げた。再びジルに向けられた双眸は、魔石ランプに照らされたどの植物よりもやわらかで。
「貴女が仰るのなら、そうかもしれません。他人は自分を映す鏡と言うそうですから」
「っ」
思わず引きかけた右手を、きゅっと掴まれた。そのまま組み替えられ、背に手を添えられる。ダンスの申し込みに応えたのだから、逃げるつもりはないけれど。
――あ。
ルーファスの顔をまともに見られない。優秀な指揮者がついているのだろう。すぐに弦楽器の音色が広場に届いた。ダンスの講義でよく聴いた曲だ。これなら目を瞑っていても踊れる。はずなのに。
「すっ、すみません。おケガはありませんか?」
「ありません!」
ステップが交差して互いが互いを支えあう、つまりは抱きとめる体勢になってしまった。二人の間にすき間が無くなり、花の匂いがより明確になる。ジルの好きな香りだと知っているから、わざわざ法衣に移してくれたのだろう。侍女に磨かれたジルも、今夜は同じ花の香りをまとっている。
――恥ずかしい。
あの時は何を言われているのか分からなかった。物凄い時間差で襲ってきた羞恥に体温が上がっていく。ルーファスを押しのけるように慌ててジルが体を離せば、しょんぼりと項垂れた声がした。
「ダンスはあまり得意ではなくて。せめて失敗しないようにと、思っていたのですけれど……なかなか、格好良くはいかないものですね」
「格好いいです! 初めてお逢いした時からずっと、リンデン様は格好いいです」
頬にのぼった熱も忘れてジルは口を開いていた。ダンスのステップを間違えたくらいで、ルーファスに瑕疵なんて付くわけがない。それにここは社交場ではなく温室なのだから、体裁なんて気にする必要はない。
「私ダンスは得意なんです。全部避けますから、安心して足を出してください」
さあ踊りましょうとジルが右手を差し出せば、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた瞼が停止した。緑の目は細くなり、飴色の眉尻が垂れる。
「それは情けないのですけれど」
首を傾げ困ったように微笑んだルーファスはそれでも、ジルの手をとった。二人が踊りを止めても紡がれ続けていた音色に、せーので呼吸を合わせて足を動かす。
「いち、に、さん」
「いち、に、さん」
演奏にのせて重なる掛け声。ジルはまるで講義を受けているような、懐かしい感覚に包まれた。
苦手な教養でもダンスだけは褒められた。根気よく教えてくれた講師に、差別なく接してくれた同僚。家族は二人いなくなったけれど、義父が一人できた。食べるもの、着るもの、住むところを心配せずに、大切な弟と一緒に暮らせていた。
八年間を過ごした教会領は、リシネロ大聖堂は確かに、ジルの故郷となっている。
――それを私は。
「すみません、強く引き過ぎました」
「え? ああ! 大丈夫です。今のはちょうどいいです」
気が付けば二人の位置は入れ替わっていた。思考に沈んでいたジルを見て、ルーファスはリードに失敗したと思ったのだろう。
「本当に大丈夫ですか?」
「はい。とてもターンし易かったです。自信を持ってください、リンデン様」
ルーファスのなかにあるダンスへの苦手意識を払拭するためにも、ジルは笑顔で頷いた。不安そうに覗き込んでいた顔に困ったような微笑みが浮かんだとき、演奏が止んだ。
ジルはレースと灰色の生地だけを掴み膝を曲げる。神官ではなく、女性貴族がとる礼をルーファスにしてみせた。




