297 紫と橙
広場に置かれた鉄製の長椅子は、古美術品のような佇まいをしていた。華奢な見た目に反して頑丈な座面には厚手のクッションが敷かれており快適だ。ナリトから、ここで待っているようにと言われたジルは指示に従っていた。
ナリトの去って行った方向から足音が近づいてくる。ガラス越しの夜のした、魔石ランプに照らされた植物の小径にいたのは。
「底抜けだと思った?」
「ええっと……はい。失礼いたしました」
一番手を譲って貰った、とナリトは言っていた。それは本来なら別の者が訪れる予定だった、ということだ。その順番が序列に沿っているとしたら、次は総大司教となったルーファスが来るだろうと思っていたのだ。
立ち上がり出迎えたジルの顔には余程分かり易く、予想が外れた、と書いてあったのだろう。近づいてくるクレイグは想定通りすぎて不機嫌になるまでもないといった様子だ。
「オレは踊らないから先にきた」
「踊らないんですか? せっかくダンスにぴったりな衣装を着てらっしゃるのに」
銃や採取道具を収めるためか、クレイグはいつも大きめなコートを羽織っている。それが今夜は洒脱なテールコートに変わっていた。長い後裾は踊ると優雅に揺れるのだ。二列に並んだボタンは髪に合わせた金色で、前裾からは懐中時計のチェーンが覗いている。そのチェーンには紫色の房飾りが付いており。
先ほどまでジルが座っていた長椅子に腰を下ろしたクレイグは鼻を鳴らした。
「着替えないとジルに逢わせないって言われた。……ねぇ、魔法石は?」
橙と焦茶の双眸に宿っているのは不機嫌ではなく、不安。クレイグはジルがイヤリングを捨てたと思っているのかもしれない。
「ファジュル大神官様から、こちらの宝石をお借りしたので。頂いたイヤリングは宝石箱にしまっています」
「ならいい」
短く返された言葉には、明らかな安堵が滲んでいた。不安が解消されたところで次の行動に移るのかな、とジルは様子を見ていた。のだけれど、クレイグは座ったまま動こうとしない。持ち時間は二十分のはずだ。
「やっぱり踊りませんか? クレイグ大神官様」
「疲れるから踊らない」
「そう、ですか」
踊りかたが分からないという理由なら、講義で男性役もこなしていたジルは教えることができた。しかし体力が問題なら無理強いはできない。隣に座れと促してくるクレイグに従い、ジルは長椅子に座り直した。するとなぜか、弦楽器の音色が流れだし。
「テーブル?」
使用人が楚々とローテーブルを運んできた。間を置かずにチーズやハム、野菜がのったひと口大のパン、クリームを使った焼き菓子やチョコレート、果物などの軽食が並ぶ。カートの横に立った使用人が一礼した。
「お飲み物はブドウの果実酒、リンゴの発泡水、紅茶、コーヒー、お水を用意してございます。いかがなさいますか?」
「果実酒。ジルは?」
「え、それじゃあ……リンゴの飲み物をお願いします」
注文を受けた使用人は二つの飲み物を置き広場を出て行った。その背を横目にクレイグはブドウの果実酒を手に取ると、興味なさそうに長椅子へ背を預けた。
「食べたら。オレは昼が遅かったからいらない」
この状況には既視感があった。あの時クレイグが魔法石を作ったのは、ジルの身を案じていたからだ。
――もしかして。
「続けてダンスを踊ったら私が疲れると思って、休憩時間にしてくださったんですね」
それなら初めからそう言ってくれたらいいのに。という感想が真っ先に浮かんだけれど、その通りに言われたら、自分は大丈夫だからとクレイグをダンスに引き込んだだろう。
「別に。オレが休みたかっただけ」
「私、お腹がすいてたんです。ありがとうございます、クレイグ大神官様」
分かりづらいなと思いつつも、可愛らしいと感じてしまった。
嬉しさのままにジルはクレイグへ身を寄せ、シュワシュワと気泡が踊る黄金色のグラスを、赤紫色のグラスにカチンと触れ合わせた。ほんのり色付いていたクレイグの耳がさらに赤くなったのは、酔いが回ったからか、照れているからか。
軽やかな曲が奏でられる中いくつめかのチョコレートを堪能していると、突然クレイグが立ち上がった。
「偏りすぎ。野菜食べてないよね」
「食べましたよ。カボチャのクリームパイ」
「それは菓子」
的確に訂正しながらクレイグはひとつの花壇に近づいた。それから使用人を呼び何かを指示している。ややあって戻ってきた使用人からクレイグは何かを受け取り、ひらりとテールコートの裾を翻した。
――絵本から出てきた王子様みたい。
金糸の髪をキラキラと輝かせながら長椅子に戻ってきたクレイグの手には、小さな白い花があった。温室に植えられていたということは薬草だろう。パンに盛られたチーズとほうれん草の上で、摘まれたばかりの花が咲いた。
「かわいい」
「ルッコラは栄養が豊富で胃にもいい」
「お花食べてもいいんですか?! 知りませんでした。ありがとうございます、いただきます」
花の飾られた小さなパンをジルは一口で食べた。満足そうに笑んだクレイグとは対称的に、甘いものばかり食べていたジルの顔には皺が寄った。花を噛んだ瞬間、じわりと舌に苦みや辛みが滲んだのだ。
「こ、これ……毒じゃないですよね」
「良薬は苦いって言うだろ」
――食べ過ぎてお腹を壊さないように、ってことかな。
リンゴの爽やかな甘みで口直しをしていると、徐々に音の減っていた弦楽器はポンッとひとつ跳ねて止まった。




