296 紫と青
乱雑なようでいて、その実はきめ細やかに仕上げられた石敷きの小径が三方向に伸びている。魔石ランプに照らされ、宝石のようにキラキラと光る草花の間をジルはまっすぐに進んだ。
どうやらこの径は広場のようなところへ繋がっているらしい。普段は書き物や休憩に利用されているのだろうか。そんな名残りをみせる長椅子の置かれた円形空間で待っていたのは。
「ナリト大神官様、お一人、ですか?」
迎えに来たのはセレナとファジュルだけだったから、他の皆はここに居るのだと思っていた。広場を見回しても薬草の茂る鉢や花壇、樹々の壁が見えるばかりで、小さなすき間からは夜に染まったガラスが覗いているだけだ。
「がっかりさせてしまったかな」
「いえ! 素敵な機会をいただいて、とても感謝しています」
玲瓏と流れる低音に陰りが混ざっていた気がしてジルは慌てて振り返った。ナリトはまだ幻覚の件を気にしているのかもしれない。嬉しいと微笑んでみせれば、切なげに寄っていた眉がひらいた。
「誕生祝いの名目を利用して、一番手を譲って貰ったんだ。月光も霞むほど美しい君に近づきたくて、皆そわそわしていることだろう」
言葉と同じくらい、注がれる眼差しは甘い。砂糖漬けの言動に少しは耐性がついたと思っていたけれど、そんなことはなかったようだ。ナリトの恰好も影響しているかもしれない。
貴族然とした上品な身形はいつも通りだけれど、さりげなく装身具や刺繍が煌びやかになっている。しかしそれは些細な違いで、一番異なっているのは髪型だ。いつもは流れるままになっている長髪が、今日はひとつに結わえられていた。艶やかな黒をまとめているのは、紫色の髪紐で。
青い瞳から逃れるようにジルはもう一度周囲へ視線を巡らせた。
「ほ、他の方も、この温室にいらっしゃるのですか?」
「仲良く第二の指揮者をしているよ」
ジルの疲労を考慮して、一人当たりの持ち時間は二十分。その間は何をしてもいいと皆で決めたそうだ。もちろんジルに拒否権はある。ジルが背を向けたなら、待機している者はすぐさま演奏を止め割って入るだろうとナリトは笑った。
「二十分間。それではもう、あまりお時間が……」
「惜しんでくれるんだね、ありがとう。説明係の役得で私の持ち時間は少し長いんだ。だがそろそろ、君の視線を他にとられるのは、楽しいものではないかな」
光沢をまとった革靴が近づき、二人の距離が一歩半に縮まった。ナリトの頭が下がり、結わえられていない後れ毛がはらりと垂れる。
「演奏の止むまで、私と踊っていただけますか?」
ダンスへ誘うお辞儀。頭を上げたナリトの微笑みは、仮面のような完成度だった。貼りつけた顔の下に隠している感情はなんだろうか。残り時間を心配したジルが、ダンスを拒否しないのは分かっているだろう。では、言葉に籠めたナリトの想いは。
「曲の続くかぎり、私はあなたとしか踊りません」
ジルは完璧に微笑むその人へ、右手を差し出した。仮面の青い目が大きくなり、細くなって溶け落ちる。まるで加護を受け止めるようにジルの手をとり、ナリトはそっと顔を寄せた。形の良い唇は手の甲に触れることなく離れ、なめらかな笑みを湛えている。
一連のやり取りは教養の講義で習った仕草そのままだ。そのままなのだけれど、甘さが加わるだけでこんなにも緊張するのだと初めて知った。手を組んだ二人の距離は半歩。至近距離でただ立っているだけなのは落ち着かない。早く演奏を。
――どうやって始めるんだろう。
そんな疑問を抱いたとき、二人しかいない広場に華やかな弦楽器の音色が流れてきた。秋夜に鳴く虫たちのように、奏者の姿は植物に隠れてみえない。どこにいて、なにが合図だったのだろう。演奏に合わせて葉と夜の景色を窺っていると、しようがないといった笑い声がした。
「明るい舞台から、暗い客席は見えづらい。その逆も然りだ。皆は、あの蔓棚の裏にいるよ」
「そうなんですか!」
感心と共に目を凝らしていたら、大きく背を逸らされた。ジルの視界から蔓棚が消える。ナリトは領主だから踊り慣れているのだろう。支える手は安定しており危なげない。曲調に合わせ引き起こされたジルの耳元で、甘やかな声が囁く。
「他には、何が気になる?」
「ぁ」
鼓膜を撫でるゆるやかな響きと、やってしまったという羞恥で耳に熱が集まった。
「えっと」
踊っている間は、ナリトだけを見ると応えたのに。つい気になってジルの意識は周囲に逸れていた。舌の根の乾かぬうちに破ったのだから、もっと怒ってもいいのに。ナリトのリードはなめらかさを保ったままで、ひたすらにやさしい。
「すみません。お誕生日のお祝い、なにも用意できませんでした」
「十分過ぎるほど貰っているよ。……正直、君の菓子を食べた全員が羨ましくて憎らしいが、すべて私が招いたことだ」
手を解放されたジルはナリトの誘いにのってくるりと回り、ドレスの裾を広げた。白のレース、長い切れ込みの入った灰色の生地は空気を食み、ひらりと翻る。上手く回転できたと思うけれど、まるで試験を受けているようで鼓動は少し早い。
――気付いてくれたかな。
ゲームのライバルがこの場にいたら、不誠実だとジルを詰っただろう。しかしそれでも、伝えておきたかった。
「君がドレスを仕立てていると聴いて、私は宝石を贈ろうと思ったんだ」
組み直した手。瞠られていた目が細くなり、濡羽色の後れ毛がナリトの輪郭にかかる。
「しかしデザインを知らないのに、どんな物を渡すつもりだと質されてしまった」
水面を流れるような二人の足どり。深い水底で、くるくると混ざりあう感情はなんだろうか。
「この宝石、虹色なんです。とても綺麗で、ひと目で好きになりました」
「ああ、想い焦がれた人によく似ている。私も、――好きだよ」
微笑みあった紫と青。景色だけが移り変わるなか、優雅な音色は余韻を残し、やがて蔓の幕に消えた。




