294 曖昧と灰色
その日は朝から忙しなかった。
大公夫人の寝室からファジュルが出て行くのと入れ替わりに、侍女たちが入室。身支度もそこそこに朝食を摂ったら、ドレスの最終調整に服飾店の夫人や針子たちがやってきた。本当は昨日おこなう予定だったのだけれど、ジルたちは手が離せないからと一日ずれたのだ。
納品に訪れた夫人へ明日にして欲しいと言ったのはデリックだったらしい。
――いつ話したんだろう。
デリックはお茶の代えを伝えるために一度退出したから、その時だろうか。
既製と別誂を組み合わせて仕立てたというドレスは完璧で、二着とも変更箇所はなかった。服飾店の経営者でもある夫人はジルとセレナをひとしきり褒め、自身の仕事に満足して去っていった。
それからはもう、ずっとこねられていた。
いつもならすぐに引き下がる侍女たちから、今日だけはお願いしますと床に頭をつける勢いで懇願され、承諾したのが最後。いや、始まりだ。浴場で丁寧に髪と体を洗われ、部屋に戻ればジャスミンの香る油を塗り込まれ、手や足の先までじっくりと丹念にマッサージされた。
ここにはジルや侍女、使用人たちしかいない。セレナは別室で用意しているそうで、他の皆も忙しいらしい。
恥ずかしいやら心地いいやら、されるがままに身を任せていると。
――職人の技ってすごい。
まるで物語のお姫様のような自分が、鏡に映っていた。
マッサージで血色の良くなった肌。化粧によってやわらかくなった目元に、ふっくらと瑞々しい唇。艶々になった髪は複雑に編み込まれ、肩に届かない長さしかないとは思えない華やかさだ。着用の有無を確認された義父の魔法石はジルからは見えないけれど、ガットア領で変装した時のように髪飾りにして貰った。
――きれい。
磨かれた爪には星屑のような銀の粒が散りばめられており、見ているだけで楽しい気分になってくる。
その日食べる物にも困る自分には、おとぎ話にしかないもので。自己回復しかできない役立たずな自分には、縁のないもので。ドレスで着飾る機会なんて、一生ないと思っていた。
嬉しくて鏡のなかの自分を凝視していると、背後から侍女の腕が伸びてきた。
「失礼いたします」
胸元で雫型の石が煌めいた。月の光を集めたような乳白色の石は、多彩な色をまとっており幻想的だ。その石を引き立てるように驚くほど透明度の高い石が配され、上品な光沢をもつ丸い石が連なっている。鏡に視線を戻せば、揃いのイヤリングが耳で揺れていた。
「あの、橙色のイヤリングは付けないのでしょうか? それにこの装飾品は……」
そういえばクレイグから貰った魔法石の着用は確認されなかった。鏡台に置かれた宝石箱へ丁寧にしまわれたのは、最後に付けるからだとジルは思っていたのだ。
「不公平であるため、こちらの宝石を、と火の大神官様よりお預かりいたしました」
「不公平、ですか?」
「はい。さすがガットア領一の宝石商を営む、ラバン商会の会頭様がお選びになった御品です」
侍女はファジュルから、ネックレスとイヤリングは贈与ではなく貸与、だから遠慮はするな、と言付かったそうだ。ジルには何が不公平なのかよく分からないけれど、答えた侍女もファジュルに同意のようで声に力が入っている。
「本日のお召し物にもよく映え、ハワード聖神官様の魅力をより神々しく際立たせております」
「あ、ありがとう、ございます」
ジルを聖女だと思っているから気を遣われただけかもしれないけれど、ここまで磨いてくれたのは侍女たちだ。作品である自分がそれを否定するのは失礼だし、褒められるのは、やっぱり嬉しい。
面映ゆくて彷徨ったジルの目は再び、乳白色の宝石に留まった。胸元を包む灰色の生地。その上で揺れる宝石は北方騎士棟を出たあの日、雨上がりの夜に浮かんでいた月のようだ。
――夫人やお針子さんたちもすごい。
服飾店でジルが伝えた希望はたったの二つ。その一つが、全身を包んでいる灰色の生地だ。本当の自分は神官見習いであり、皆を繋ぎ止めるために曖昧な態度をとっている。だから白でも黒でもない、灰色がぴったりだと考えた。
するりとした手触りのドレスには、襟や袖がない。胸の下で切り替えるように銀細工のベルトがあり、そこからふわりと裾が広がっている。灰色の裾にはいくつかの長い切れ込みが入っており、踊ったときの変化が楽しみで、少し怖い。
ジルとしてはこの一着で十分満足だったのだけれど、デザイナーでもある夫人はもう一着作成していた。ドレスの上に着るドレス、と表現すればいいのだろうか。ケープ状の袖をもつチュールレースの白いドレスを重ねれば、沈みがちな灰色は軽くなり、銀のような煌めきを帯びた。
――すごく楽しかったって言ってたな。
ジルもセレナの衣装も初めての試みが多かったらしく、つぶらな目の下に隈をみつけた時は困らせてしまったのだと思った。しかし今後の流行について語る夫人の爛々と輝く瞳を見て、本当に服飾と新しいものが好きなのだと再認識した。
「お迎えがいらっしゃいました。お通ししても宜しいでしょうか?」
「あ、はい。行きます」
侍女に促され椅子を立ったそのとき、扉のひらく音がした。




