292 恋の話
「すみません。せっかく仕立てて頂いたのに……」
「べつに誕生日にしか着ちゃいけないなんて決まりはないんだ。言っただろう? 所有権はそっちにあるんだから、好きにしたらイイんだよ」
「元はといえば、領主様が一日伸ばしたのが悪いんです。今のジルさんに必要なのはドレスじゃなくて、休息ですっ」
備えつけのソファに腰掛けたファジュルはグラスを傾け、口を尖らせたセレナはジルの顎まで上掛けを引き上げた。
談話室での作戦会議が終わるや否や、ジルはセレナ付き添いのもと湯浴みや食事を終え、大公夫人の寝室にある大きな寝台に寝かされていた。
発熱や手足の痛みなど身体的な不調は無い。ただ少し、頭が重たいと感じる程度だから問題ないのだけれど。話し合いの最中、セレナはずっと体調を気遣ってくれていたから、安心させたいという思いはジルにもあった。しかしそれ以上に、セレナの有無を言わさぬ圧力は、ジルだけでなく大神官たちをも従わせていた。強い。
「それで、どうしてファジュル様はここでお酒を飲んでるんですか」
くるりと振り返ったセレナの背中に、寝るので出て行ってください、という文字が見えた気がした。というか、ツンツンとした声音から丸分かりだった。当然ファジュルも気が付いているだろう。それでもグラスに注がれる果実酒の音は止まない。
「どうしてって、最後の親睦に来たんじゃないか」
「最後?」
思わぬ単語に身を起こしたジルの体から、上掛けがずり落ちた。今日はナリトの誕生日だった。しかしジルがこの有様なので、領主の誕生日にかこつけた大神官の親睦会という名の舞踏会は、明日に延期となったのだ。
その明日は、臥ノ月十日。そこから九日後は月に一度の祈祷日だ。聖堂に大神官がいなければ大騒ぎになるため、火、土、風の大神官は夜会の翌朝にシャハナ公爵邸を発つのだ。と、ジルは考えていた。セレナも同じ考えだったようで首を傾げている。
「参加せずに帰っちゃうんですか?」
「いーや、居るよ。ただ明日はジルと碌に話せないだろうからね。アンタ達も一杯どうだい?」
「いりません」
「遠慮しておきます。あの、私と話せないというのは」
酔いは自己回復で消せる。だからジルにとって果実酒は果実水も同然だけれど、今はファジュルに見えている明日のほうが気になった。
二人の断りを聴いても、黒子を飾った妖艶な口元は弧を描いたままだ。ブドウの果実酒が入ったグラスを手にソファの背もたれに片腕をのせたファジュルは、身を捻るようにしてジルへ顔を向け紅玉の目を細めてみせた。
「次に全員が揃うのはいつか分からない。一人でも二人でも、五人でも、夜這いするなら明日しかないって事さ」
「よ、夜這い?! なにを、って、五人とか意味が分かりません!」
「ぁ、今のジルさんは、聖女様だから……」
酒のにおいにでも当てられたのだろうか。ぽっ、と染まった頬に両手を当てたセレナがとんでもないことを呟いた。普段ならファジュルを諫めるであろう唇は恥じらうようにきゅっと結ばれ、水蜜の瞳だけがあちらこちらへと忙しなく彷徨っている。
聖女は望むだけ、何人でも夫を迎えられるという制度を思い出しているのだろう。しかしジルは偽物で、なにより聖女そのものを廃そうしているのだ。結果がみえているのに、砂の上に家を建てるのは愚か以外のなにものでもない。
「私は誰にも夜這いなんてしません」
「釣るだけ釣ってポイ捨てなんて、男どもに同情しちまうね」
とんだ悪女だとファジュルは面白そうに笑いながら捻っていた姿勢を戻した。傾けられたグラスから、まろみを帯びた赤紫色の液体が消えていく。
――皆の好意を、利用してる自覚はある。
「そういえばジルさんは、誰が好きなんでしたっけ?」
「え?」
「ちゃんと訊いたことがなかったな、って。誰ですか?」
――どうして“いる”前提なんだろう。
寝台の傍に立っていたセレナの楽しそうな顔がずいっと近づいてきた。このドキドキやワクワク感に満ちた顔は教会領でも見たことがある。恋の話をしていた同僚たちと同じ顔だ。ジルは弟が一番で、自分から話しに加わったことがなければ、たまたま居合わせても相槌程度しか経験がない。
もっと興味を持って聞いていたら、“好き”の違いが分かったのだろうか。
「皆さんです。皆、家族みたいに大好きです、っぅわ!」
「嬉しい! 私もジルさんが大好きです! あっ、ごめんなさい」
セレナに抱き締められたと思ったら、ぼふっと頭がやわらかな枕に埋もれていた。ジルの上にある顔は申し訳なさそうに眉尻を垂らしながらも楽しそうだ。それはジルが、弟にしていた空気と似ている。
「私も嬉しいです」
寝台から身を起こそうとするセレナの頭を撫でれば、魔石ランプの灯りを受けた淡紅の金髪が、宝飾品のようにきらきらと輝いた。
「楽しそうだね。アタシも混ぜて貰おうか」
ジルの隣に移動したセレナの向かい側が沈む。声のした方に顔を向ければ、ファジュルまで寝台に上がっていた。




