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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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290 後悔と目的

 ジルは瞬きひとつせず、ナリトから目を逸らさなかった。


 二人は対立しているわけではない。ただ、着地点が離れているだけだ。そこをどう近づけていくか。ジルの考えは伝えた。次はナリトの意見を聴く番だ。


 大きくなった暖炉の火は、じりじりと談話室の温度を上げていく。ジルの背に汗が滲みだしたとき。


「妖魔だなんて、呼ばせないよ」


 はす向かいに座していた氷のような気配が、ふっと緩んだ。凍っていたナリトの表情は解け、申し訳なさそうに少し眉根を寄せている。


「すまない。つらい事を言わせてしまった」

「え?」

「事を成したあとで、そんなつもりはなかったと君に後悔して欲しくなかったんだ」


 ――領民のためだけじゃ、なかったんだ。


 魔素が消えたことによって引き起こされる影響をジルに気が付かせるために、ナリトはわざと反対するような言い方をしたのだ。


 ――そういえば。


 ガットア領のヴィリクルでも、タルブデレク大公は示唆していたではないか。魔王の討伐は少ない者にとっては不都合だ、と。改めて自分の視座は低いと思い知らされた。


「はっきり仰ってくださったお陰で、迷いは消えました。ありがとうございます、ナリト大神官様」


 タルブデレク大公の口元には、なめらかな笑みが戻っていた。しかし黒髪の艶が心なしか薄れて見えるのは、空気が乾燥してきたからだろうか。


「そもそもジルが気にする事じゃない。混乱が起きるのは上が無能だから」

「情報統制はお御偉い方の得意分野なんだ。面倒事は投げときゃいいのさ」

「耳が痛いです」


 クレイグとファジュルの言い分は領主のナリトだけでなく、今やソルトゥリス教会で上から三番目の地位にいるルーファスへも飛び火していた。その火の粉を払うでもなく、新任の総大司教は穏やかに受け止める。


「時の権力者が歴史を作るのは、今後も変わらないでしょう」

「それは……私が土の神殿に入れたこととも、関係がありますか?」


 今後もということは、以前から続いていたということだ。大神官の祈祷を、聖女の浄化を支えるためだと流布してきたソルトゥリス教会は、他にも真実を隠しているに違いない。


 土の精霊であるムーノは、悪い人からルゥの精気を護っていると答えた。祭場に登らないと知ったとき、また人にとられると必死にジルを連れて行こうとした。ムーノの言う、また、が指す人物は儀式に訪れた歴代の聖女だろう。


 ジルは土の神殿で起きたことを皆に話し、再びルーファスへ問う。


「知っていることを教えてください」


 ジルの口がひらいて閉じるまで、緑葉の瞳が驚きに揺れることは一度もなかった。ジルの閉じた唇を追うように、ゆっくりと飴色のまつ毛が伏せられる。視界の外でカチャっと鳴った小さな音への意識は、続いて発せられた言葉にかき消された。


「魔王クノスは、リシネロ大聖堂に封印されています」


 静かに告げられたそれは、ジルが最も知りたかった情報だ。


 図書館や書庫、魔素信仰者のアジトに魔王の封印に関する情報はなかった。やっと、やっと一歩目的に近づいた。体が震えるのは高揚からか緊張からか。身に渦巻くよく分からない感情なんてどうでもいい。夢でみたゲームの光景、魔素と共に流れ込んできたクノスの記憶、それぞれの答え合わせをしよう。


「大聖堂のどこに、封印されているのでしょうか?」

「遺失魔法で女神ソルトゥリスの力を借り、聖堂棟の地下に封じているようです」


 近づいたと思ったら微妙に逸れていた。聖堂棟はクノスの記憶通りだけれど、ゲームでみた場所は祭壇だ。


 ――あれは敵になった聖女エリシャを討つ場面だったから。


 クノスが封印されている場所と違ってもおかしくはない。おかしくはないのだけれど、なぜか聖堂棟三階にある聖女の祭壇がジルの頭から離れない。他にも違和感はある。ムーノは遺失魔法を嫌っていた。


「土の精霊が嫌う術に、女神ソルトゥリスは応えてくれたのですか?」

「遺失魔法って、女神様の力も借りられるんですか?」


 ジルとセレナの疑問が同時に紡がれた。あ、と気まずそうに笑い合う二人へ、ルーファスは眉尻を下げて微笑んだ。


「教皇、総大司教にのみ閲覧を許された禁書には、光の精霊ソルトゥリス、闇の精霊クノス、と記されていました。女神や魔王は、教会が創り出した虚像です」


 女神は存在しない。フドド廃鉱でクノスが言っていたのは、このことだったのだ。


 明かされた真実に息を飲む者、鼻で笑う者、変化の見えない者と反応は様々だった。そのなかにあって、神官見習いは驚きよりも、心配が勝った。ソルトゥリス教会の偽りを暴く穏かな声音には、喪失感が滲んでいた。


 禁書を独りで紐解いた神官の鑑のような人は、どれほどの衝撃を受けたのだろう。信仰し、毎日祈りを捧げていた君主は、まやかしだったのだ。


 自分はどれだけルーファスを苦しめているのだろう。手を握り締め視線が下がりかけたとき、低く玲瓏な声がジルの意識を引き上げた。


「総大司教に選出される条件を、ジル嬢は知っているかな?」

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