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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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289 領主と詭弁

 パチパチと、くゆる炎に焼かれた薪の音が談話室に大きく響く。そのすき間から聴こえてきたセレナの声は。


「あの、私……責めるつもりは無かったんです。ちょっと、驚いて、信じられなくて……騙されてたのは、皆同じなのに」


 まるで、ジルに嫌われるのを恐れているようだった。とつとつと語られていた言葉が途切れ、ジルの手にあたたかな何かが触れた。硬く閉じていた瞼をあければ。


「ジルさんの為だったら私、教皇様にだって弓を引いてみせます!」


 セレナは両手でジルの手を掬い、任せてくださいと言わんばかりに握り締めた。言葉の綾だ。そう理解してはいるものの、ソファから立ち上がりジルと同じ目線に並んだ桃色の瞳は、覚悟に満ちた輝きを放っている。


「私はソルトゥリス教会で一番偉くなるので、問題ありません」

「それでは本末転倒です」


 そうだ、セレナは過激派だった。やわくあたたかなこの手を赤色に染めるなんて、もっての外だ。聖女を解放するために行動しているのだから、セレナが聖女になっては意味がない。魔素の発生源である魔王を討伐すれば解決する、とジルはセレナを宥めつつソファへと座らせた。


 ――近くなってる。


 座り直した二人の距離は、初めの位置よりも狭まっていた。嫌われ、遠巻きにされる覚悟をしていただけに、セレナの存在は頼もしく、とても嬉しい。


「なんか、二人だけで進めようとしてない」

「魔物化するなんて脅されてたんだ。慰謝料をたっぷり請求させて貰うよ」


 不愉快だと言わんばかりに口を揃えたのは火と土の大神官だ。その言葉を肯定するように風の大神官は頷く。


「ソルトゥリス教会の変革は、僕の意志でもあります。ですからどうか――巻き添えにしたなどと、考えないでください」


 飴色の眉尻を垂らしたルーファスは困ったように微笑んだ。謝罪の言葉が、口をついて出そうになった。ジルは飲み込んだ感情をルーファスと同じ微笑みに変える。


「ありがとうございます」

「女神でも猊下でも、邪魔なら斬ってやる」

「私も頑張ります!」

「いえ、ですからそれは」

「皆、勇ましいね」


 ラシードに追随するセレナを再び諫めていると、あたたかな談話室に低く玲瓏とした声が流れた。どこか部外者めいた言葉は静かで冷たい。目を伏せ紅茶に口をつけたナリトへ向けてクレイグは鼻を鳴らした。


「冷めた食事ってどう、タルブデレク大公閣下」

「美味しいよ。料理人の腕がいいし、安心して口にできるからね」


 昼食は過ぎ、夕食にはまだ早い。クレイグはなぜ急に食事の話を始めたのだろうか。唐突な問い掛けにもなめらかな笑みを刷いたまま答えたナリトは、カップの中身を飲み干した。影を落としていたまつ毛が持ち上がり、青い瞳がまっすぐにジルを捉える。


「魔物が殲滅されれば農産物の生産性は向上し、領地間の往来は今よりもずっと容易くなり、経済や文化は発展するだろう。しかし、私の双肩には何千万という領民の命が乗っている」


 食料の多寡は生死に直結する。生産量が増えれば、暮らしは今よりもずっと豊かになるのではないだろうか。それは領民の命を守ることになる。ジルはそう思っていたのだけれど、ナリトの静かな声音はそれを否定していた。


「ソルトゥリス教会は、民を支援し続けます」

「魔法が消滅し、聖女という旗印まで失った組織に、一体どれだけの者が従うのか」


 パンッ、と暖炉の炎が大きく爆ぜた。炭になり、支えきれなくなった薪がカタンと崩れる。総大司教を一瞥した領主は、再びジルに視線を戻した。


「魔素の上で形成された秩序がある。分かり易いもので言えば……そこの神殿騎士たちが職を失う可能性を、君は考えたことがあるかな? そういえば、御父君の腕は聖魔法で再生したのだったね」


 ――なかった。


 魔素が無くなれば聖女という生贄は廃止され、魔物は消えて、皆が安心して暮らせる日が来ると、ジルは思っていた。


『功罪相半ばする。ここの芸術を発展させたのは、間違いなく先代だよ』


 タルブデレク領についてファジュルが話していた言葉を思い出した。


 生界は女神ソルトゥリスを君主に戴いている。その権現たる聖女を庇護するソルトゥリス教会の教えは、社会規範だ。その統治体制が崩れたとき、保たれていた秩序は大なり小なり乱れる。ナリトは為政者として、治安の悪化を憂慮しているのだ。


 それを予見できたからこそ、代々の教皇や総大司教も自ら魔素をばら撒くという行為に目を瞑っていたのだろうか。民を混乱から、護るために。


 ――でもそれは、問題を先延ばしにしてるだけだ。


 自分の行動が原因で、魔物の犠牲になった人がいる。夢を諦めてまで、支えてくれる人がいる。今さら犠牲を出したくないなどと言って、逃げるつもりはない。


 ジルは下がっていた視線を上げ、凍てた青い瞳を見据え口をひらく。


「選ばれた者にしか施されない聖魔法なんて、平民には初めから存在しないものです。魔素がなくなり秩序が乱れると仰るのなら、神殿騎士団は各領地で犯罪行為を取り締まり、治安維持に務めればいいのではないでしょうか。かつての親衛隊は、時代に合わせて近衛騎士に名を変えたと伺っています」


 皆のためにと掲げた看板は、ただの詭弁だ。見知らぬ領民と弟。どちらかを選べとなったらジルは迷わずエディをとる。そのために自分は、行動を起こしたのだから。


 村で暮らしていた時のジルは、魔物よりも食べ物が無くなるのを恐れていた。ひもじくても耐えるしかなく、目覚めたらエディが冷たくなっているのではないかと、毎日眠るのが怖かった。


「魔素があっても、餓死する者はいます。近い将来に混乱が起きても、遠い未来に飢えで苦しむ人々が減るのなら私は――ソルトゥリス教会を壊す妖魔になります」

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