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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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285 患部と金平糖

 ユウリはいつも紅茶を淹れてくれる。その準備をしているのだろうか。執務室に戻ってくるのを待ってもいいけれど。扉から振り返ったジルは、視線を落としたままのナリトへ首を傾げた。


「痛いのを我慢している、ということはありませんか?」

「無いよ」


 他人が気付いているのに、本人が知らないなんてことがあるだろうか。服の下などジルからは見えない箇所を負傷しているのでは、と推測したのだけれど、ナリトは否定した。


「ではどうして、お戻りが遅くなるとご連絡を?」


 ジルに政務の詳細は分からない。それでも、いま忙しいかどうかくらいは推測できるつもりだ。机上に積まれた書類はなく、綺麗に整頓されている。ここへ来るまでに行き交った人たちは落ち着いており、側付きからも忙しない気配は感じなかった。


 ナリトが何かを隠しているのは確実だ。現にジルの追及から逃れるように、タルブデレク大公は椅子をくるりと回転させ窓の方を向いた。


「郵便局からの報告を待っているんだ」

「エヴァンス公爵家名義の手紙はすべて差し止め済みであると、十八時に報告致しました。招待客はおりません」

「……ユウリ」


 間髪を入れず答えた側付きは廊下に戻り、カートを押して再入室した。ジルの予想通り、お茶の用意をしていたようだ。恨みがましい声で名を呼ぶ主には目もくれず、手際よく応接テーブルに二人分の茶器を並べている。


「カライト様、負傷した所を教えてください」


 テーブルから顔を上げたユウリは、藍色の目を一度ナリトへ向けた。それから腕を揃えジルに深く腰を折る。


 初めに紡がれたのは、今回の騒動に関する謝罪の言葉だった。それからナリトのために訪問した事への感謝を述べられた。そうしてようやく、ユウリは本題に入った。


「幻覚にかかっていた間の記憶が、すべて残っているそうです」

「記憶?」

「ハワード神官見習い様に酷いことをしたと。嫌われた現実を直視するのが怖いそうで、」

「ユウリ!」


 余裕が服を着ているようなナリトが焦っていた。椅子から立ち上がり身を乗り出すようにして机に両手をついている。離宮で声を張り上げたことといい、ここ数日で珍しい姿をよく見る。あれだけ交わっていた視線にしても。


 ――もしかして、目が合わなかったのって。


 ナリトに言葉を遮られたユウリは、弟が申し訳ないといった顔でジルに小さく頭を下げた。それからカップへ紅茶を注ぐ。紅葉を映したようなお茶からは、ほっとあたたかな湯気がのぼっている。


「お好きな量をお入れください」


 差し出されたガラスの菓子器には、星のような砂糖菓子が入っていた。色とりどりの可愛らしい粒は教会領でも見たことがある。エディの長剣と一緒にナリトがくれた金平糖だ。


 ガラスのフタをあけスプーンを置いたユウリは、鋭い視線を部屋の奥へ向けた。


「ハワード神官見習い様を待たせている自覚はおありですか。止めるくらいなら、自分の口で説明しなさい」


 鋭いのは視線だけではなかった。弟分を叱りつけたユウリはテーブルを離れ壁際に控えた。その姿はいつもの側付きに戻っており、もう世話は焼かないといった意思表示にもみえる。


 ジルはナリトを嫌ってはいない。シアルトラングの毒が原因だと判っているのだから、責めるつもりもない。話をしやすいよう、自分は気にしていないと声を掛けたほうがいいだろうか。そう思い叱られたナリトへ顔を向ければ。


「ふふ」


 一瞬だけ目が合った。今はもう逸れている。ローナンシェ大公の捕縛を命じた人物と同一とは思えない怖がりようだ。その様子がおかしくて、ジルはつい笑ってしまった。この可愛らしい姿は三人目の弟だ。


「お茶が冷めてしまいますよ、ナリト大神官様」


 幻覚にかかっていた間の記憶がナリトにはあると、ユウリは言った。だからジルはタルブデレク大公に咎められた呼び名を口にしてみせた。菓子器を手に乗せ、砂糖菓子をスプーンですくう。


「金平糖は入れますか?」


 執務机から応接ソファに。気まずそうにジルの対面に座ったナリトへ微笑んでみせれば、青い瞳がそろりと前を向いた。


「ありがとう。一粒、頂けるかな」

「かしこまりました」


 従者のように請け負ったジルは席を立ち、ナリトのカップに一つ、自分のカップに三つの金平糖を溶かした。甘い香りがゆっくりと解けていく。それからジルはただ、おいしい紅茶を楽しんでいた。ナリトが言葉を発したのは、三口目を飲んだ時だった。


「すまない。色々と、負担を掛けてしまった」


 低音の玲瓏とした声は、滝のように落下していた。ナリトの前に置かれた紅茶は一度もテーブルから離れていない。ジルはカップを皿に戻し、姿勢を正した。


「ナリト大神官様は、領主としてのお務めを果たされたのです。胸を張りこそすれ、痛める必要はまったくありません」

「だが、」

「お約束通り、領民を優先したタルブデレク大公閣下が、私は好きです」


 なにかを言いかけた唇は薄くひらいたまま動かず、青い双眸は大きく見開かれた。


 ローナンシェ大公は人身売買、魔石の不正など多数の犯罪に関与していた。その犯人の捕縛は多くの被害者を、そして未来の民を救ったに他ならない。


 嘘ではない。本心だ。そんな想いを込めてジルはまっすぐにナリトを見詰め続けた。正面にある柳眉が微かに寄った。瞬きを思い出した瞼は、ゆっくりと水底の瞳を覆い隠す。


「君はいつも、私を救ってくれる」


 ゆっくりと心から染み出したような声だった。

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