284 治療と刺繍
ジルが安堵したのも束の間、ユウリは困ったような顔をしていた。側付きがみせるこの表情は二度目だ。前回は、ナリトがシアルトラングの毒に侵されている時だった。まさか。
鎮まっていた不安が再び広がり始めた。どこかに毒草が残っていたのだろうか。それとも道中で体を痛めたのだろうか。いずれにせよナリトの具合が悪いのは確かだ。
「ナリト大神官は今どちらに?」
総大司教に問いかけられたタルブデレク大公の側付きは、腹部に左手を当て恭しく頭を下げた。
「城の執務室におります。動けるようになるまで、もうしばらく時間が掛かりそうでしたので、お詫びに伺いました」
「治療に行きます! 私を執務室まで連れて行ってください」
「ありがとうございます、ハワード聖神官様」
礼を言われたということは、ナリトの元へ連れて行ってくれるのだろう。頭を上げたユウリの顔は、いつものとり澄ました顔に戻っていた。
「リンデン様、お話は明日にしましょう。皆さんも、今日はお休みください」
聖魔法で治したとしても、病み上がりの人間をいつ終わるとも知れない場に連れ出すのは忍びない。それに政務と体調不良で、ナリトは十分な睡眠をとれていない可能が高い。一日待ったのだ。もう半日延びてもたいして変わらない。
ユウリが扉前から移動したのに合わせてジルが談話室を出たとき、背後から不機嫌そうな声が近づいてきた。
「オレも行く」
ジルに続きクレイグも廊下に出てきた。痛みの原因が病気なら、聖魔法では治せない。そうなるとジルの出る幕はなく、薬の領分となる。なるほど、クレイグの同行は合理的だ。一緒に来て貰おうとジルは考えたのだけれど。
「お気遣いに感謝申し上げます。しかし、ハワード聖神官様のお力で治療可能です。どうぞ皆様、お部屋にお戻りください。衛兵がおりますので、護衛も不要です」
「皆様?」
その後に続いた言葉にも違和感を覚えて振り返れば、セレナとファジュルを除く全員が、扉の前に集まっていた。
――皆も心配なんだ。
とはいえ、お見舞いへ行くにしては圧が強い。これではナリトも落ち着いて休めないだろう。
「お聴きの通りです。ナリト大神官様は私がしっかり治しますので、皆さんは安心して待っていてください」
聖魔法で治せるなら大丈夫だ。心配いらないと笑顔で請け負えば、クレイグ、ルーファス、デリック、ラシード、ついでにファジュルにも、なぜか微妙な顔をされた。ただセレナだけが、笑顔でジルを送りだしてくれた。
◇
白と黒。色の異なる石床が交互に敷き詰められたチェス盤のような廊下。高い天井からは魔石ランプのシャンデリアが一定間隔で下がっており、白壁に施された彫刻を余すことなく照らしている。
まるで駒になったような気分で歩を進めれば、透明度の高いガラスの床板に出くわした。水路を跨ぐように渡された通路は、水の上を歩いているようで落ち着かなかった。
夜間のためか人影はまばらで、城勤めの貴族や使用人はタルブデレク大公の側付きを認めるなり会釈し、ちらりとジルを見て通り過ぎて行った。聖神官の法衣に注目はしても、両膝をつく者はいない。ここには偽聖女の情報は届いていないようだ。
「ユウリです。ご報告に上がりました」
政務が執りおこなわれる城の二階。金の装飾が煌びやかな両扉の向こう側から、入室を許可する応えが上がった。低く玲瓏な声は少し元気がないようだ。ユウリに促されるまま執務室に入れば、月の浮かぶ窓を背にナリトが座っていた。視線は執務机に落ちており、手元には。
――布?
ジルの背後で扉の閉まる音がした。それを合図に机に垂れていた長い黒髪が上がり、青い瞳が前を向く。
「手間を掛けた、な?!」
「突然の訪問、失礼いたします」
神官らしく腰を折りジルは行礼した。とても驚かせてしまったようだ。ナリトは目を丸くしたまま動かず、指の間から白い布だけがひらりと滑り床へ落ちた。
白は汚れが目立つ。ジルは応接用のテーブルとソファを通り抜け、部屋の奥に鎮座した執務机に近づいた。布を拾い上げ軽く掃う。
「落ちました、……この刺繍」
青い糸で刺された歪な紋章には、見覚えがあった。三年前、長剣と菓子を頂いたお礼にジルが水の大神官へ贈ったハンカチーフだ。あの時は一番きれいにできた物を選んだつもりだったのに。
――自分の名前も歪んでる……。恥ずかしい。
「ああ、ありがとう。大切なものなんだ」
「このハンカチーフがですか?」
「針を刺した分だけ、君の心が籠められているだろう。とても嬉しかったんだ」
長い指先が、記憶をなぞるように刺繍を撫でた。思った以上に喜ばれていた気恥ずかしさと、刺繍の出来栄えに対する羞恥とでムズムズと落ち着かない。話題を変えよう。
「あの! 具合の悪い所はどこですか? 聖魔法をかけるので見せてください」
「具合? どこも悪くはないが」
「ケガをして、どこか痛めたのではないのですか? カライト様からそう……あれ?」
一緒にやってきたタルブデレク大公の側付きは、執務室のどこにも見当たらなかった。




