283 芸術と報復
ジルたちが服飾店を出たのは、水路に夕陽が溶けだした頃だった。
着用後のドレスは結局、ファジュルが引き取ることになった。使用される生地は一級品。利用価値は色々とあるそうだ。
前夜祭だという街には、あちらこちらに青色のリボンや幕が架かっており、領主の誕生日を祝う準備が整っていた。水の流れる音に交ざって、どこからか楽器の音色が聞こえてくる。通りに並んだ夜店では食べ物のほか、ブローチやネックレス、ペンなども売られているようだ。どれも凝った作りをしているのに価格はお手ごろだ。
「細工師見習いの小遣い稼ぎ、腕試しでもあるんだよ」
「あれは……似顔絵を描いてるのかな?」
水路を挟んだ向こうの通りを見てセレナが首を傾げた。カンヴァスの前には一人の老人。その正面には一組の男女が肩を寄せ合い見つめ合っていた。注目してみれば、同じ通りの少し離れた場所、ジルたちがいる通りにも絵描きらしき人々が道具を広げている。
「似顔絵も腕試しですか?」
「貴族の家に飾ってる絵画、あれらの作者は大方がタルブデレク領の出身だ。祭で描いてるのは気分転換だったり、名を売ったりだね」
「「へー」」
ジルもセレナも、貴族の邸はシャハナ公爵家しか知らない。確かに宮殿内にも大小様々な絵画が飾られていたけれど、実例を一件しか見たことがないため、いまいちすごさが分からなかった。反応の薄い二人にファジュルは笑い声を立てた。
「そのどうでもいい絵に連中は、平民の家が何十戸と建てられる金をつぎ込むんだよ」
「「ええー!!」」
すごさが分かった。宮殿内にあるものだけで、一体いくつの家が建つのだろうか。
「絵描きに支払われた金の一部は税として領地に納められる。それがあるから代替わりしても、芸術家への支援は続けてるんだろう」
タルブデレクの先代領主、ナリトの父親は政権を私物化していた。それをソルトゥリス教会に問題視され、嫡男の毒殺事件を機に領主を交代させられたのだ。
「功罪相半ばする。ここの芸術を発展させたのは、間違いなく先代だよ」
ラバン商会の主商材は宝石だ。会頭としてなにか思うところがあるのだろう。その声はやけに真剣味をおびていた。しかしそれも長くは続かない。重くなりかけた空気を払うように、波打つ亜麻色の髪がくるりと広がった。
「アタシの奢りだ。虫よけ共も一緒に入りな」
ファジュルが足を止めたのは、古いけれど活気と親しみを感じる大衆食堂の前だった。
◇
魚介の旨味がたっぷり溶け込んだ濃厚なスープ。火の通っていない魚のサラダが出てきたときは驚いた。酸味のあるトマトソースに溶けた熱々のチーズ、香草の散らされた大きな薄焼きパンを皆で分け合って食べたのは、とても楽しかった。
少しのんびりし過ぎたかもしれない。そう心配しながら帰路についたのだけれど。
「お戻りになってないんですか?」
ジルとセレナ、ファジュルに用心棒。そこへ離れて護衛していた神殿騎士二名を合わせた、計六名で食事を終えた一行はシャハナ公爵邸に帰ってきた。
神官服に着替えたジルは、大神官様方がお待ちです、と侍女に声を掛けられた。いよいよ昨夜の続きが始まる。そう意気込んでやってきた談話室に、ナリトの姿はなかった。水の大神官が居なければ、話は再開されない。
「残務処理は、今夜で一段落つくと伺っていたのですけれど」
ジルを出迎えた風の大神官は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
夕飯は街で食べるとファジュルが伝えており、ルーファスとクレイグも食事は済ませたそうだ。時計の針は二十時を指している。もし深夜を越えるのなら、連絡が入りそうなものだけれど。
――なにか問題が起きたのかも。
タルブデレク大公はエヴァンス公爵令嬢を伴って、ローナンシェ大公夫人や子息が滞在している宿泊施設へ向かったのだ。タルブデレク領内とはいえ、そこにはエヴァンス公爵家の護衛兵もいる。仕える主人が捕縛されたと知って、報復や奪還に動いても不思議はない。
もしどこかに監禁されているのなら、連絡できなくて当然だ。背筋にひたりと、冷たい夜気が張りつく。
ローナンシェ大公の身柄と交換するのであれば、ナリトは簡単には殺されないだろう。それでも今頃は、寒くて怖い思いをしているかもしれない。それなのに自分は、何をのんきに観光していたのだろう。
――助けに行かなくちゃ。
菓子や言葉。ナリトはジルに、たくさんのものをくれた。それを返す時がきたのだ。
「私、ナリト大神官様を迎えに行きます!」
まずはローナンシェ大公夫人を訪ねよう。偽物の聖女でも、堂々と振る舞えば無下にはできないだろう。情報を吐かせるためなら、その場で指の一本でも斬り落とし再生してみせてもいい。拳を握ったジルは踵を返し勢いよく談話室の扉を。
「わっ」
開けようとした瞬間、取っ手が遠のいた。ジルの手は空を掴み、前傾していた体はラシードの腕に引っかかっている。ひらかれた扉の先には、藍色の目を丸くした。
「ナリト大神官様はご無事ですか!? ケガや怖い思いはしていませんか!?」
ラシードへ礼を伝えるのも忘れて、ジルはユウリの手を掴んだ。気迫に押されたのかタルブデレク大公の側付きは若干身をのけ反らせている。
「は、はい、しておりません。無事です」
その答えを聴いて、ジルの体からは一気に力が抜けた。落ち着いて見れば、いつも傍についているユウリにもケガや汚れといった異変は無い。ジルの杞憂だったようだ。
「……よかった」
「ああ、いえ。痛めているところはございます」




