279 肯定と安心
――これだ!
「セレナ聖神官に、ありがとう、おやすみなさい、と伝えてください」
伝言を受けた使用人は一礼し下がって行った。それを見送ったジルは、手元のやわらかな寝衣に視線を落とす。立襟の法衣では眠りづらいと心配してくれたのだろう。セレナの気遣いに感謝をしつつ、ジルはくるりとソファを振り返った。
突然の来訪をルーファスも不思議に思ったのだろう。ソファから身を起こしていた部屋の主と目が合った。現れた緑の瞳がまぶたの裏へ隠れてしまう前に、ジルはバラ色の布をはらりと垂らしてみせる。
「ルーファスが移動しないなら、これに着替えて私もソファで寝ます」
「どうぞ」
「えっ」
まさか肯定が返ってくるとは思わなかった。透けるほどではないけれど、この寝衣は生地が薄く、紫色の華奢なリボンが通った襟ぐりは大きくひらいている。羽織る物もなくこの恰好で眠ったら風邪を引くとルーファスなら答えると思っていたのに、目論見が外れてしまった。
ジルはこれまでに風邪を引いたことがない。だから着替えるのは問題ないのだけれど。
――そうか。
「衣装部屋で着替えてきます」
「えっ。ああっ、いえ! 今のは忘れてください! 僕は何も言っていません……!」
ルーファスは慌ててソファに体を倒し、のぼった朱を隠すように背もたれへ顔をうずめている。失言だったと気が付いたのだろう。しかしもう遅い。口から出た言葉は消せないのだ。背をみせたルーファスを置いてジルは隣接する衣装部屋に入った。
――かわいい。
さすが公爵家というべきか、セレナの見立てがいいと言うべきか。見た目に反して寝衣は思った以上にあたたかい。鎖骨がすべて出ているのは違和感があるけれど、長い裾や袖はしっかりと肌を隠しているため下品には見えない。
寝衣は眠るときに着るものだ。外出するでもなく、所属を明らかにするものでもない。すぐに眠ってしまうのだからお金をかける必要はないし、あたたかければどんな服でもいいとジルは思っていた。
――でも、ちょっと分かった。
華やかな寝衣は誰かのためにではなく、自分のために着るのだ。砂糖菓子のような服に包まれてみる夢は、きっと甘くてふわふわだ。
寝室に戻ったジルは、大人が優に二人は眠れる大きな寝台へ一直線に向かった。羽のように軽いふかふかとした上掛けを豪快にはぎ取る。そのまま無言で移動したら、かくれんぼに失敗した子供のような背中めがけて、ぼふりとソファごと上掛けを被せた。
「な、なにを!?」
「宣言したことを実行しています。足をもう少し奥へ寄せてください」
突然暗くなって驚いたのだろう。ジルが入り込むのと入れ替わりに、ルーファスは上掛けから顔を出した。ソファは手触りがよく上質だけれど、寝椅子のような形をしていない。ジルは少しでも空いた場所に、ルーファスの足元に座っていた。
「大丈夫です。私、寝相の注意はされたことがないので、顔を蹴ったりはしないと思います」
ソファは二人が並んで横になると、とても窮屈だ。こんな状態で眠るのは苦痛だろう。ジルの想定通り、ルーファスは飴色の眉をものすごく寄せて呻いている。もう少し押したら移動してくれそうだ。
「ソファから落ちたくないので、足に掴まらせて」
「使います! 寝台に移動します!!」
――勝った!
嬉しさから思わず口角が上がる。ジルはルーファスの寝衣から手を離し、ソファから立ち上がった。寝具から出ると少し肌寒く、ない。真剣な顔をしたルーファスが、なぜかジルに上掛けを巻きつけている。
「こんな格好でソファに居られては困ります。ジル嬢にも移動していただきます」
「はい!」
当初の目論見通りルーファスは、ジルが風邪を引くと心配したようだ。場所については、ソファで共に眠っても問題ないのなら、それが寝台に変わっても支障はないだろうと作戦を変更していたので狙い通りだ。
これでルーファスはゆっくりと眠れる。そう思いジルは元気よく返事をして足を動かしたのだけれど、簀巻き状態のため歩きづらい。と思ったときには目に移る調度品が横倒しになっていた。
ルーファスに運ばれ、もふっと寝台に降ろされる。厚いマットの上でごろごろと転がりミノムシ状態から脱したジルは、急いで上掛けを整えた。
「お待たせいたしました。どうぞお入りください」
ジルの合図でゼンマイが巻かれたように動き出したルーファスは、扉近くに備えられた魔石ランプの灯り一つを残して戻ってきた。
「失礼、いたします」
失礼しているのはジルの方なのに。暗くて表情は見えづらいけれど、部屋の主は律儀に一礼しているようだ。それから布の擦れる音がして、寝台の端が沈む。端が沈み、そこで止まった。
「あの、もっとこちらに寄らないと、落ちてしまいますよ」
「ここが落ち着くので大丈夫です」
ここがいい。ここから動かない。そんな固い意志を感じさせる声だった。
――そういえば。
ルーファスは風の聖堂で、広いところは落ち着かないと言っていた。これにはジルも同感だ。寄宿舎ではいつも弟と一緒だったから、一人で眠るのだって。
「手を出してください、ルーファス」
「どうか、されましたか……?」
子供一人くらいなら入り込めそうな間に、そろりとルーファスの手が現れた。その手にジルは、自分の手を重ねた。剣と弓では皮膚の硬くなる場所が異なるようだ。鍛練の滲んだ手を労わるように、そっと握る。
「っ」
「エディが小さい時は、よく手を繋いで眠ってたんです。安心するようにって」
あの頃は、弟の不安をやわらげる為にと思いおこなっていた。いま思えばそれは、自分を安心させる為でもあったのだ。
「傍にいてくださって、ありがとうございます。おやすみなさい、リンデン様」
「おやすみなさい、よい夢を」
繋いだ手のひら越しに見えるルーファスの顔も、微笑んでいる気がした。




