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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
279/318

278 補充と命令

「私は、リンデン様の信頼に足りましたか?」


 その言葉を合図に、背中に回されていた腕が解けた。二人の間に挟まっていたストールが足元へ落ちる。ジルの肩口から頭を上げたルーファスは眉尻を下げ。


「溢れるほどに」


 泣き出しそうな顔で微笑んでいた。


 緑葉の瞳に滲んでいるのはきっと、ジルを試した後悔ばかりではない。夜気に触れたルーファスの目尻には露が結ばれていた。ジルは人差し指を伸ばし、その水滴をすくい取る。


「あなたが諦めたものに見合う対価を、私に求めるのは間違っていません」


 聖女は不老だけれど、不死ではない。ケガで死なないのは、治療する聖神官が常に傍にいるからだ。ルーファスはそこを権威で誤魔化して、皆にジルが聖女であると勘違いさせた。


 この成り代わりに、ソルトゥリス教会は関係ない。離宮で総大司教はジルに跪き、夢のひと時だったと言った。仮初でも、喜んでくれるのなら。


 ストールを拾い上げ立ち上がったジルは、冷たい手をとり目を細める。


「お休みしましょう、ルーファス。あなたが眠っても、私はここに居ますから」

「ぇ」


 ジルを見上げたルーファスは、口をひらいたまま固まってしまった。用件が済んだら部屋に戻ると思っていたのだろう。実際、ジルもそのつもりだった。状況を整理しているのか、心ここにあらずといったルーファスの両腕を引けば、簡単にソファから立ち上がってくれた。そのまま手を引き、豪奢な寝台へと誘導する。


「時間を気にせず、朝までたっぷり心の補充ができますよ」


 リシネロ大聖堂の宿泊棟で、弟と久しぶりに過ごした時間はとても楽しく、心が安らいだ。それをルーファスにも分けてあげたい。ジルは美しく整えられた上掛けをめくり、厚いマットの上でぽんぽんと手を弾ませる。


「先に入っててください。私はセレナ神官様宛ての言付けをお願いしてきます」

「ま、待ってください! 朝までなんて、ジル嬢にご迷惑がかかります!」


 寝台近くの壁に備えられたレバーへと伸ばした指先は、冷たい金属ではなく、人の肌に触れた。ルーファスの手に阻まれてしまった。肩越しに振り仰げば、想像通りの困り顔が見えただろう。しかしジルは振り向かなかった。反対側の手でえい、とレバーを押し下げる。


「ああっ」


 これで使用人部屋に繋がったベルが鳴った。いくらも経たないうちに人がやってくるだろう。それまでにルーファスを落ち着かせなくては。


「私が傍にいるのは、嫌ですか?」

「ありえません! しかし……ですけれど、……外聞が」

「聖女である私を、誰が批判できるのでしょうか?」


 訊ねた瞬間、ルーファスの顔は真っ赤になった。耳まで染め上げて言葉を詰まらせている。くるくると木枯らしに舞う葉のように瞳だけが忙しなく動く室内で、訪問を告げる音が鳴った。扉を叩いた使用人は総大司教の名を呼んだけれど、ジルは構わず応答する。


「今夜はこちらで休みます。セレナ聖神官にそう伝えてください。眠っているようでしたら、明日の朝でも構いません」

「畏まりました」


 驚いた様子を見せたのは一瞬で、使用人はすぐに頭を下げた。これでセレナも気兼ねなく休めるだろう。選んでくれた寝衣は明日の夜に着よう。扉が閉まったのを確認したジルは、凍りついていたルーファスへどうだとばかりに胸を張ってみせた。


「何も言われませんでしたね」

「それは……いえ、分かりました。本日は休ませていただきます」

「はい、おやすみなさ、い?」


 観念した様子で一礼したルーファスは寝台に入らず、なぜか移動を始めた。ジルの前を横切り、たどり着いた先には。


「我が君は寝台をお使いください」


 そう言って部屋の主はソファに寝転び目を閉じてしまった。


 ――そこじゃない!


 いつかジルとナリトがしたような攻防を、ルーファスに仕掛けられてしまった。しかし焦ることはない。あの時は従者で立場が弱かったけれど、今回は違う。勝てるのだ。


 ジルは堂々とした態度で腰に手をあて、反対の手でびしっと寝台を指し示す。


「ソファは私の寝床です。命令です。寝台はルーファスが使ってください」

「そう仰るだろうと思いました。聖女様を蔑ろにしていると広まれば、僕は総大司教の任を解かれてしまいます」


 ルーファスは困りましたとばかりに眉尻を下げ、殊勝な言葉を紡いだ。しかし、未だにまぶたは降りたままで、揃った両足がソファに乗っているのはどういうことなのか。おかしい。総大司教よりも聖女のほうが立場は上なのに。


 自分の行動を先回りされたのも悔しい。悔しいけれど、ここでルーファスに離脱されては困る。聖女を虐げたとなれば、任を解かれるだけでは済まないだろう。それは嫌だ。


 ジルはルーファスに、ゆっくりと休んで欲しいだけなのに。


 ソファでは疲れがとれない。なにか移動させる方法はないか考え込んでいると、扉が本日二度目の訪問者を報せた。呼び出しのベルは鳴らしていない。急用だろうか。使用人に名を呼ばれたジルは首を捻りながらも入室を許可する。


「恐れ入ります。就寝のご挨拶にと、クラメル聖神官様よりお預かりいたしました」


 恭しく差し出された使用人の両手には、レースが重ねられたバラ色の布が乗っていた。

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