277 妖魔と教徒
――高潔?
高潔とはどういう意味を持っていただろうか。少なくとも、自分の姿を偽り、他者の好意を利用するような人間には使われないはずだ。ジルからすれば、ルーファスにこそ相応しい言葉に思える。
ジルの一番の目的である、弟の死亡回避は大神官たちには伝えていない。セレナを聖女の役目から解放したい、魔素の発生源である魔王クノスを討伐し、魔物を消したい。耳当たりのよい言葉しか聞かされていないため、ルーファスは思い違いをしているのだろう。
「私は、自分がしたい事しかしていません。仮であっても、聖女と名乗るのはおこがましいくらいです」
「そうです。聖女という名で、言い表せられるものではありません」
――ん?
妙な同意が返ってきた。そっと窺ったルーファスの横顔は変わらず苦しそうで、膝上のストールは強く握り締められている。これは触らないほうがいいやつだろうか、と迷っているところで緑の瞳がジルを映した。
「我が君をさして、妖魔だなどと宣うウェズリー殿の愚弄に耐えきれず……感情に駆られてしまいました」
――ええっと、つまり。
ジルは妖魔ではないと否定するために、衝動的に跪いてしまった、ということだろうか。申し訳ございませんと項垂れたルーファスの眉は、言い付けを守れず叱られた犬の耳のように垂れさがっている。
「ソルトゥリス教会が、セレナ神官様を拘束しようとしている、ということはないのですね?」
「ありません」
慎重に訊ねたジルの心配を、ルーファスはすっぱりと分断した。歯切れの悪かった先ほどとは大違いだ。今は、セレナに危険は迫っていないと分かっただけで十分だ。不可解な言いまわしや総大司教に任命された経緯は、明日にでも知れるだろう。
「それを聴いて、安心いたしました」
晴れた懸念に、入室してから初めてジルの口元に笑みがのぼった。秋も深まりはじめた夜の空気は、教会領のようにひんやりとしている。室内着である寝衣は、法衣に比べると薄手だ。ジルは膝にかけていたストールを手にとり腰を浮かせた。
「就寝前に押しかけてしまい、申し訳ございませんでした。それから、私のために怒ってくださり、ありがとうございました」
ソファに座ったルーファスの体を包むように、ジルは正面からストールを被せた。怒りや悲しみなどの強い感情は、疲労感が伴う。それに、四ヶ月振りの再会だ。
「消耗した心の補充、しますか?」
その場で膝をつけば、風に吹かれた緑葉のように頭上で瞳が揺れた。急に抱きついたら驚かせてしまう。それを学習したジルは事前確認をしたのだけれど、この状況下では断りづらいかもしれない。どうにもルーファスは、ジルが気にしているよりもずっと後ろめたさを感じているようなのだ。
「ああ、でも、睡眠のほうが回復しそうですね」
補充は不要だと言いやすいよう別案を提示してみれば、ようやくルーファスが言葉を発した。
「ご迷惑では……」
「私はまだ眠たくないので大丈夫です!」
前回は途中で眠ってしまったけれど、今回は最後まで起きて自分の足で部屋へ戻る。遠慮はいらないとジルは明るい声で返した。だというのに、眉尻は下がったままだ。なにをそんなに悩んでいるのだろう。
――これはもう了承を得た、ということでいいかな。
このまま返事を待っていると、ルーファスの体は冷えてしまう。だからジルは二つの案を実行することにした。床に両膝をつき、ルーファスへと腕を伸ばす。腰の辺りをぎゅっと抱きしめれば、ストールの端がジルの肩に垂れてきた。
「っ」
「寒くはありませんか?」
自分はなにも気にしていない。そんな思いを込めてルーファスの背をさすった。ジルの基準では全然補充できていないのだけれど、体力の回復には睡眠が一番だ。
「風邪を引いてしまいますから、お休み」
「っ、申し訳ございません」
腕を解いて離れようとしたところ、逆に抱きこまれてしまった。
引き留められたジルの肩に、ルーファスの頭が乗っている。心を満たすには、やはり短過ぎたようだ。エディがそうしてくれるように、自分もルーファスの気が済むまで腕のなかに収まっていよう。
「まだ、ここに居ますから」
ふわふわとした飴色の髪を梳き大丈夫だと笑ってみせれば、ルーファスの腕にぐっと力が籠った。隔たれたすき間はストール一枚分、そこへ絞り出されたような声が入り込む。
「申し訳、ございません」
「謝らなくても」
「謝らせてください。……僕は、貴女を試してしまいました」
敬虔な教徒が、女神ソルトゥリスに懺悔しているようだった。まるでここが礼拝堂になったような、しんとした静粛さが降りてくる。ルーファスの頭に添えていた手はそのままで、ジルは首を傾げた。
「手紙に、理由が書かれていなかった件でしょうか?」
「……裏切ったら、お互い様だと。僕も……違えていい、と」
淀みなく尋ねたジルに反して、ルーファスの口調は鈍い。
納得できる理由もなく他者の言葉に従うのは、考えるのを放棄したときか、相手を信頼しているときだ。ジルは考えてルーファスを信じた。その結果がどうであろうと、自分の選択に後悔はない。




