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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
277/318

276 寝衣と悪女

 ジルとセレナの部屋は、大公夫人の寝室に戻っていた。


 侍女頭だと名乗った使用人はジルに一つの鍵を渡し、隣室に控えているので何かあれば遠慮なく申し付けてくださいと頭を下げ退出していった。


 レイチェルから引き取ったのだろう。直通路を仕切る扉の鍵が二本、手元に揃った。ジルはその鍵を鏡台に置かれた金細工の小箱に収める。


「ジルさんジルさん、どっちがいいですか?」


 衣装部屋から嬉しそうに顔を覗かせたセレナの手には、二枚の寝衣があった。どちらもゆったりとしたワンピースで足元まで裾が伸びている。やわらかそうな生地には共布のフリルや同色のレースがあしらわれており、とても可愛い。


「銀色っぽい青の方は間違いないんですけど、バラ色に紫のリボンがついたこっちも似合うと思うんです」

「セレナ神官様なら」

「私じゃなくて、ジルさんが着るんですよ?」


 何を言っているのだと首を傾げたセレナは交互に寝衣を掲げて、目を眇めている。


「あの、私が今まで着ていたものは……」

「無かったです。うん、やっぱりこっちがいい! 私は薄い黄色にしよう」


 どうぞ、と差し出されたのはバラ色の寝衣だった。淡い紅の布にレース生地が重ねられており、紫色の細いリボンが襟ぐりから垂れている。


「可愛らしいものを選んでくださり、ありがとうございます。後で着替えますので、セレナ神官様は先に休んでてください」

「まだ寝ないんですか?」

「リンデン様に、報告し忘れたことがありまして」


 聖女様のためにと用意された寝衣は正直、着こなせる気がしない。それでもセレナが似合うと選んでくれたものだから、拒否するつもりはない。ただ、胸元が見えるのではないかという程ひらいた服で廊下を歩く勇気は、ジルにはなかった。


 それをセレナも察してくれたのだろう。無理に着替えさせようとはせず、冷えるからとジルにストールを掛けて送り出してくれた。


 ◇


 扉の外にいた衛兵へ、総大司教が滞在している部屋を教えてほしいと尋ねたところ、大変恐縮させてしまった。


 硬い動きで案内された場所は、先日までジルとセレナが使用していた客室だった。宮殿内で、ここが一番格式高いのだろう。短期間に何度も清掃と模様替えをしなければならなかった使用人たちへ、申し訳なさが募る。


 ――そういえばあの時も、水の大神官様絡みだった。


 リシネロ大聖堂の宿泊棟で奉仕中、一緒に洗濯物を取り込む予定だった同僚が急遽、別室の清掃に駆り出されたことがあった。その部屋はナリトが押さえたもので、ジルはそこへ招待されたのだ。


 ――それと同じ日に、私はリンデン様の背中を押したんだ。


 扉を叩いた衛兵がハワード聖神官の訪問を告げれば、思いのほか早く扉はひらかれた。衛兵はまだ近くにいる。自分は聖女だと切り替え、口元に笑みをのせた。


「離宮の件でお話があります。お時間をいただけますか」


 客室から姿を現したルーファスは、深緑色の法衣を脱いでいた。長衣にロングパンツという、ジルが先日まで着ていた寝衣と同じ形だ。訪問の用件を聞き、ぱちぱちと繰り返されていた瞬きが落ち着いていく。


「それでは、談話室をお借りしましょう」

「すぐに終わりますから、こちらで結構です。帰りの案内はルーファスに頼みます。ありがとうございました」


 扉が閉まる前に手を掛け、衛兵へ礼を伝えながらジルは部屋に押し入った。


 過日はタルブデレク大公の寝室を訪れ、当主が不在の今夜は総大司教の寝室に入っている。はたから見ればジルはとんだ悪女だろう。しかし聖女であれば、ソルトゥリス教会のお墨付きで正当化されるのだから教理様様だ。


 扉が閉まり切ったのを確認し、ジルは頭を下げた。


「夜遅くにすみません。今日中に確認したいことがあり、伺いました」

「何事かと思いました」


 ほっとしたように息をはきだしたルーファスは、ジルをソファへ誘導した。領地の移動に裁定と、ルーファスのほうが疲れているに違いない。だからジルは対面にある緑の瞳を見据え、単刀直入に訊ねる。


「聖女の存在を持ち出したのは、治療だけが理由ではありませんよね?」


 問い掛けに息を飲んだのが分かった。先ほどはセレナが同席していたから、怖がらせないために本当の理由はぼかしたのだ、とジルは予想していた。総大司教となったルーファスは、今代聖女や教会内部の動きをなにか掴んだに違いない。


「囮になる覚悟はできています。本当の理由を教えてください」


 飴色の眉が中央へ寄った。瞳は追及から逃れるように下を向いている。明日になればナリトが帰ってくる。そうなれば手紙や神殿が話題の中心となり、またはぐらかされてしまうだろう。


 ジルはソファから立ち上がり、ルーファスの隣に座り直した。膝上で組まれた手に自身の手を重ね、伏せられた顔を覗き込む。


「リンデン様は、私が信じられませんか?」


 ルーファスの指先が強張った。


 他者に負担を押し付けて、自分は結果を享受するだけ。それは、聖女一人に負担を強いている今の生界と何も変わらない。ジルは、それを壊したいのだ。


「私も戦えます」


 ジルは羽織っていたストールをとり、分け合うように互いの膝にかけた。そこへ、小さな呻き声が零れる。


「違うんです。高潔な貴女には及びもつかない……もっと、浅ましい理由です」

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