273 期待と偽物
――なんで!!
ジルの足元に、ふわふわとした飴色の髪があった。首は深く垂れており、ルーファスの顔は見えない。
明言されていないとはいえ、皆これまでの話を聞いている。風の大神官であり、教皇の次に位置する総大司教となる者が跪けばどうなるか、ジルでも分かる。
ここで聖女ではないと否定すれば、やはりルーファスは嘘つきだとローナンシェ大公は威勢を取り戻すだろう。しかし、黙っていては消極的な肯定となってしまう。なんと声を掛けるのが適切なのか。
ジルが言葉に迷っているところへ本来の次代聖女、セレナが護衛騎士を伴って近づいてきた。むっ、と怒ったように唇を引き結び、ジルの首へと手をかざす。溢れたあたたかな光はたちどころに切創を消し去った。
「また倒れたりしたら私、泣きますから」
――それは、嫌だな。
できればこの先、皆には笑っていてほしい。自分のせいで、悲しんだりしてほしくない。
子供の頃からあたためていた夢を捨てるのは、どんなにつらかっただろう。それも一度は諦めていたのを、ジルが拾い上げ希望を持たせたうえで、再び捨てさせたのだ。総大司教を選んだのはきっと、ジルが支えてほしいと頼んだからだ。
そのルーファスがこうして、聖女として振舞うのを自分に望んでいる。
応えないでどうする。
「ご心配をお掛けいたしました、セレナ聖神官」
セレナはすぐ小さな違いに気が付いた。水蜜の瞳を見開いたあとは何も言わず一礼し、皆と同じように礼拝の姿勢をとる。ジルは心のなかで感謝し、自分の足元へ視線を移した。
「顔を上げてください、ルーファス。あなたは私に、よく尽くしてくれています」
敢えて膝はつかず、上から鷹揚に語りかけた。
本当は両膝をつき、頭を下げて謝りたかった。
しかしルーファスは、謝罪を聴きたくて総大司教になったわけではない。ジルの期待に応えようと、あんなに楽しそうに話していた宿屋の夢を、諦めたのだ。
ジルが謝ったら、その選択を否定することになる。
――それだけは絶対にしちゃいけない。
やわらかな飴色の頭が小さく動いたとき、視界の端でふるふると毛先の巻かれた藍墨の髪が揺れた。レイチェルの肌は酷寒のもとで晒されたように青褪めている。
「なぜ? その者は……男でしょう?」
「この状況で分からないなんて、愚鈍な娘を持つと親も大変だな」
「クレイグ大神官さ」
――あぶない。
驚いていつもの調子で呼ぶところだった。最上位の存在である聖女は、何人に対しても敬称をつける必要はない。
ルーファスに場所を説明しただけで、クレイグは離宮に来ていないと思っていた。応接室の扉ではなく、ルーファスと同じように大窓から姿を現したクレイグは、どこかで聞いた台詞を模しながらレイチェルへ言い捨てた。
「バカ領主も底抜けも、いつまで血まみれにさせてんの。行こう」
平伏する人々は調度品とばかりに目もくれず、一直線にジルのもとへやってきたクレイグは手を差し出す。問答無用で引っ張って行かないのは、約束を守っているからだろう。
この場から去ってもいいのだろうか。もう、役に立てることはないのだろうか。
視線を上げれば、立ち上がっていたルーファスと目が合った。緑葉の瞳は静かにジルを見詰めるばかりで、唇はなにも紡がない。ただ一度だけ、ゆっくりと頷かれた。
――好きにしていい、ってことかな。
今のジルは聖女だ。誰からも許可を得る必要はない、ということだろう。
ローナンシェ大公はデリックに拘束されている。レイチェルが逃亡するとは思えない。司法機関へ引き渡すにしても、偽物の聖女であるジルが指示をだすのは憚られる。あとのことは総大司教やタルブデレク大公に任せるのがいいだろう。
室内に居る皆へ届くよう意識して、ジルは口をひらいた。
「私とセレナ聖神官は宮殿へ戻ります。ルーファス、タルブデレク大公、いいように取り計らってください」
正面にある飴色、側面にある黒色。二つの頭が同時に下がった。
「仰せのままに」
「大公の責をもって対処いたします。お戻りの前に、清めの許可を賜りたく」
ナリトはあの日と同じように、付着した血を水魔法で取り除こうと考えてくれたのだろう。
「必要ありません。洗えば落ちます」
気遣いは有難かったけれど、いつ衝撃から立ち直った父娘に聖女の御印をみせろと言われるか分からない。それに、本来はする必要のない礼拝をした使用人たちを、早く解放してあげたかった。
首を垂れたままのナリトへ頭を振ったジルは、クレイグへと手を伸ばす。
「馬車回して」
ジルが手を重ねるまえに迎え出るようにして握ったクレイグは、入ってきた大窓とは異なる方向へと歩きだした。帰りは正規の出入口を使うようだ。宮殿へと戻る馬車を要求するクレイグにエスコートされながら、ジルはセレナと共に応接室の扉をくぐった。
離宮にいる間、ナリトと目が合うことは一度もなかった。




