272 魔物と聖女
ローナンシェ大公からの反論はない。呼吸をするので精一杯といった様子で顔色は悪く、ただジルを凝視している。
そこに近づく気配があった。背後から迫る足音は小刻みで軽い。ナイフの先にいるウェズリーから目を離せないジルは、警戒しつつもその場に留まった。
ヒール音が止み、視界の端に青いドレスが映った。直後、パンッ、と乾いた音が鳴る。
「どうして貴方にそんなこと言われなくてはならないの!!」
レイチェルは蕾のような唇を歪ませ、金色の瞳いっぱいに涙を溜めて、それを零さまいと必死にジルを睨みつけていた。平手打ちされた頬が、じんじんと痛みだす。
「同情で減刑を求めるほど、わたくしは落ちぶれてなどいないわ!」
再び細い腕が振り上げられた。ジルは刑罰のことなんて考えてもいなかったけれど、要らぬお節介を焼いてしまったらしい。
過去に、ファジュルからも頬をぶたれた事がある。その時に比べればレイチェルの力はずっと弱い。それでも、胸には同様の痛みを受けた。ジルは明確な意思をもって、レイチェルの恋を邪魔した。だから再びぶつけられる感情も受け入れるつもりだった。
しかし、頬に二度目の衝撃はやってこなかった。ジルの血でまだらに染まった手袋はぎゅっと握り込まれ、青いドレスの胸元で小さく震えている。
「な、によ……貴方、血だらけじゃない……っ」
聖魔法が発現したとはいえ、まだ訓練中で大量の血を見るのは初めてなのだろう。レイチェルの声は不安と恐怖が混ざりあっていた。それが、呼び水となったようだ。
「そうだ……そうだ! なぜ動いとるんだ!! 首を切られても死なぬとは、やはり不気味なその銀髪は。聖女の護衛を見て紛れ込めると思うたか、この妖魔め!!」
その目は故郷で向けられたものと同じで、違っていた。
村人は姉弟の髪色を気味悪がっても、親のいる人の子であることを認識していた。
「おいッそこの神殿騎士ども! 貴様らは魔物を殺すのが仕事だろう!! 早くこの妖魔を殺せ!!!!」
ウェズリーの目には不快感や恐怖心だけでなく、激しい殺意が宿っていた。
昔のジルはただ、珍しい髪色をしているだけだった。今は他の人にはない自己回復を有している。聖女の儀式をしていないのに、欠損を再生できる。時機が異なるのに、神殿へ至る道は開かれた。土の精霊は自分を見て、なんと言っていただろうか。
どくり、と心臓が大きく脈打った。魔力が、似ているだけなのだと考えていた。
ローナンシェ大公の投げた言葉は使用人たちの間に落ち、じわじわと動揺を広げていく。
普通の聖神官でもなく、特別な聖女でもない。魔素の発生源である魔王に、魔力を分けて貰った自分は――。
「不死の存在を妖魔と呼ぶのなら、ウェズリー殿は聖女様も、魔物だと仰るのですね」
正面から吹いた風が、ジルの髪を揺らした。応接室に漂っていた血の臭いが、花の匂いに押し流されていく。
「彼女を中傷するのなら、ソルトゥリス教会はあなた方を異端者と断じざるを得ませんけれど、宜しいですか?」
大窓から入りこんだ冷ややかな風は室内に吹き渡り、揺れていた空気を瞬く間に鎮めてしまった。高い所から威圧するように巡っていた視線が、ジルの前でぴたりと止まる。
庭から突然現れ、眉尻を下げて困ったように微笑むその人に、ジルは目を瞠ることしかできない。ナリトの誕生日が過ぎたら、逢いに行こうと思っていた。
――どうして。
ルーファスがまとった法衣は浅縹色ではなく、バラの葉が絡まったような、濃い緑色をしていた。
「迎えも出さず失礼した、リンデン総大司教」
タルブデレク大公が来訪者の地位を明らかにして一拍、衛兵や使用人たちは慌てて深く腰を折った。ジルを襲った侍女やローナンシェ大公の側近も頭を下げており、この場で顔を上げているのは聖女一行と、エヴァンス公爵家の父娘だけだ。
「構いません。クレイグ大神官が案内してくださいました」
いつの間にかジルの隣に並んでいたナリトへ、ルーファスは穏やかに返した。再びジルを映した緑葉色の目が痛まし気に細められたとき、下方からがなり声が上がった。
「オーサーはどうした! わしは退任など聴いとらんぞ!!」
「新任の総大司教は、聖女様の交代に合わせて布告される予定です」
――え。
ジルは自分の耳を疑った。伏せられているはずの言葉が聞こえたのだ。
しかしウェズリーは気が付いていないようで、掴みかからん勢いで床から立ち上がり、新たに就任するという総大司教へ詰め寄っている。
「ローナンシェ大公のわしに内示は届いとらん! 貴様、謀っておるなッ」
「聖女様の交代、ですって?」
顔を真っ赤にさせたウェズリーの傍で、レイチェルの呟きが落ちた。今代聖女と同じ金色の双眸は、まさか、と二人の神殿騎士に護られた聖神官へと移動する。
「善良な民に先んじて、罪人へ伝える謂れはございません。今代の聖女様については、あなたのお父上がよくご存じでしょう」
穏やかな態度を崩さない総大司教は父娘の疑問に答え、神殿騎士にウェズリーの捕縛を命じた。風の速さで応えたデリックを横目に歩を進めたルーファスは、深緑の裾を床に広げる。
「遅くなってしまい申し訳ございません、我が君」
その瞬間、立礼していた人々が一斉に床へと両膝をついた。
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