271 傀儡と侮辱
首筋にナイフの存在を感じながら視線だけを動かせば、テーブルに抑えつけられていたはずのローナンシェ大公は苦々し気に腕をさすっていた。後ろでは側近が床に倒れた護衛兵の腹を蹴り上げている。
「起きろッ、この役立たずが!」
「木偶でも壁くらいはできよう。少なくない金を掛けてやってるんだ、報いろ」
強制的に覚醒させられた護衛兵は呻ぎ声を上げ、降ってきた主人の言葉に跳ね起きた。不意打ちとはいえ気絶したのを失態に感じているのだろう。護衛兵は職務を果たさんと不満の声もなく、ローナンシェ大公の盾となった。
その様子をナリトやユウリ、使用人たちは厳しい顔つきで注視している。
状況から推測するしかないけれど、恐らくレイチェル付きの侍女が駆けたのに合わせて側近も動き、ローナンシェ大公を解放したのだろう。先ほど自分は指示されただけだと言っていた口が、今は労わる言葉をかけている。
――私が人質になってるから、動けなかったんだ。
シャハナ家の使用人や衛兵、ナリトの戦闘力なら再捕縛が可能だったはずだ。セレナを助けるつもりが、足手まといになってしまった。
ナリトの傍にいるレイチェルは本当になにも知らされていないようで、動揺も露わに三方向へ視線を彷徨わせている。
侍女に狙われていたセレナは落ち着いており、神殿騎士たちにしっかりと周りを固められていた。それでも少し不安そうに桃色の瞳が揺れるのは、ジルの身を案じてくれているのと、ラシードやデリックの殺気にあてられたからだろう。
張り詰めた空気のなか、ローナンシェ大公はじりじりと秋バラの庭に面した大きな窓の前へと移動している。応接室の扉は遠いため、窓からの逃走を図っているのだろう。
「レイチェル、こっちへ来なさい。幻覚が効いとるなら傀儡にできたが、稚児趣味の男に嫁いでも幸せにはなれんぞ」
「え」
小さな声を上げたのはジルだ。稚児がもし自分のことを指しているのなら、侍女の狙いは初めからセレナではない。ジルは自ら人質にならんと身を差し出したことになる。それは護衛兵が演じた以上の失態だ。
父親の言葉にレイチェルは下唇を噛むだけで動こうとはしない。心配する声をかけながら、娘が何を思っているのか気にもしないウェズリーは窘め続ける。
「聴いたぞ。そこの側仕えを除けば、使用人でも同室となるのを禁じておるタルブデレク大公が、あの従者は寝室に連れ込んだそうじゃないか。代替わりしてから女の噂がぱったり止んだと思っておったら、まさか男の」
「私は!!」
卑俗染みてきたローナンシェ大公の言葉は、ナリトの張り上げた声にかき消された。いつもの低く玲瓏とした声音とはまったく異なる、激流のようだった。けれどそれは一瞬のことで、次には流麗な調子に戻っていた。
「性別で選んでなどいませんよ。しかし、伴侶にと望んでいる人は、女性であると訂正しておきましょう」
「ナリトお兄様!」
やはり自分は愛されていたのだ。歓喜の声を咲かせたレイチェルは婚約する者の腕に抱きついた。しかし、見上げた先では長い黒髪が左右に揺れている。
「君は妹で、それ以上でもそれ以下でもないよ。幻覚のせいとはいえ勘違いさせてしまったね」
「おやじは女で失敗しとるからな。その教訓が男妾とは。いやはや社交界一の色男は考えることが違う」
ナリトの母を揶揄しての言葉だろう。
先代のタルブデレク大公には二人の妻がいた。平民は一夫一妻が主流だけれど、直系の後継者を望む貴族には一夫二妻の者もいる。ソルトゥリス教会も認めている制度で、成婚して三年経っても子がいない場合はもう一人娶ることができる。それでも子を授からない時は養嗣子を迎える運びとなるのだ。
「男の嫉妬で娘を毒殺されてはかなわん」
ジルが聴いていられたのは、そこまでだった。
ふつふつと沸いていた熱は、ジルからナイフを無理やり引き剥がした。鋭利な刃が首から顎、頬に赤い帯を巻きつける。跳ね飛んだ液体に誰かが悲鳴を上げたけれど、こんなのは擦り傷だ。あとで自己回復すれば簡単に治る。
大窓への最短距離。邪魔なテーブルに駆け乗ったジルは、一足飛びにウェズリーの前へと着地した。バラを散らしたような紅い雫が床に、肉付きのよい顔に貼り付いている。
「その娘を使って毒を盛らせたのは、どなたですか」
後退しようとしてつまずき転倒した父親へ投擲用のナイフを突きつければ、見開かれた煉瓦色の瞳の奥にレイチェルと同じ金色がみえた。
「その娘の努力を毒で台無しにしたのは、どなたですか」
自分が従者に扮しているせいでタルブデレク大公は侮辱された。そのことに悔しさを覚えたジルは、聖女の儀式に随行して初めて、偽りのない姿を宣言したいと思った。しかしナリトは、ジルの正体を明かさなかった。だから耐えていたのに。
ライバルはいつ、結婚したいからタルブデレク大公を操って欲しいと頼んだのだろう。
水の大神官はいつ、領主になりたいから異母弟を殺して欲しいと頼んだのだろう。
事が毒に触れて、弾けてしまった。
「あなたの為だと言いながら、自分の欲を押し付けるのはやめてください!」




