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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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269 同席と中止

 ジルにできることはした。あとは宮殿で見守るだけだ、と昨夜は思っていたのに。


「よく来てくれた、セレナ聖神官。総本山の神官が立会人となれば、より式の格が上がるというものだ」

「貴女もどこかに嫁ぐのでしょうから、後学のために見ていなさい」


 客室でセレナと一緒に朝食を摂っていると、タルブデレク大公の側付きが訪ねて来たのだ。せっかく教会領所属の神官が敷地内にいるのだから、婚約の調印式に同席させたい、とエヴァンス親子が望んだそうだ。


 ローナンシェ大公の思惑は、証人を増やして外堀を埋めたい、といったところだろうか。レイチェルのほうは、ナリトは諦めろという念押しを兼ねた勝利宣言だろう。


 婚姻の契約は、神官立ち会いのもとにおこなわれる。しかし婚約は、言ってしまえばただの約束であるため、手続きに立会人は必要ない。誓約書に互いが署名したら終わりだ。


「急な呼び立てで驚いただろう。君たちはそちらに居るだけで構わないよ」

「はい。お邪魔にならないよう静かにしています」


 セレナ付きの侍女に案内された場所は城ではなく、離宮の応接室だった。


 部屋の隅に置かれた一脚の瀟洒な椅子。タルブデレク大公はそこへセレナを誘導した。


 椅子の背面側にある壁には各家の侍女や使用人が控えており、左右の壁には護衛らしき兵が一人ずつ石像のように立っていた。儀礼服で金属鎧は着けていない。青の紋章をつけた兵はシャハナ家、橙の紋章はエヴァンス家だろう。


 本日の主役たちは部屋の奥。カーブした細身の脚をもつ優雅なテーブルに集まっていた。誓約書に署名するためかソファではなく、椅子に座っている。傍には大きな窓があり、庭では薄紅色の秋バラが咲き始めていた。


 二日後は、ナリトの誕生日だ。


 ――まだ合わない。


 入室してからこれまで、ジルとナリトの視線は交わっていない。解毒は成功していると思う。しかし、初めての試みだったので確証はない。


 ――食べた毒豆の量が足りなかった可能性は、ある。


 細められた青い瞳はずっと隣席のレイチェルに向けられており、仲睦まじい二人の様子に向かい合ったローナンシェ大公は満足そうにしている。


 礼儀的にはナリトがローナンシェ領へ渡り、レイチェルの親元を訪ねるのが正しいそうだ。しかし今回はローナンシェ大公がタルブデレク領に入ったため、ナリトは本邸である宮殿から、親子が滞在する離宮を訪れるという形をとった、と今朝ユウリに説明された。


 説明中、ナリトの容態やシアルトラングに関する言葉は一切出てこなかった。


「これでわしも仕事に専念できる。レイチェル、タルブデレク大公に尽くすんだぞ」

「お父様に言われるまでもありません。わたくしは執務のお手伝いもしているのよ」

「ええ、レイチェル嬢には助けられています。私の体を気遣い淹れてくれるお茶も、ありがたく頂戴しています」


 三人の言葉が交わされるなか、使用人がテーブルに紙を並べていく。あれが婚約の誓約書なのだろう。各家で保管するため二枚ある。他の紙は資産や事業に関する契約だろうか。ジルはセレナの後ろに立っており、距離のあるテーブル上の文字は読めない。


「そうだわ、お父様。お願いしていた茶葉はお持ちになって? 昨日お淹れした分で無くなってしまったの」

「可愛い娘の頼みを忘れるわけがなかろう。ふむ、これが済んだら一服するか。あれは毎日飲んでこそ良さが実感できるのだ」


 ローナンシェ大公は背後に控えていた側近らしき壮年の男性へ目配せした。会話を聴いていたから委細承知しているのだろう。側近は具体的な指示を仰ぐこともなく一礼し、迷いのない動作で応接室を出て行った。それと入れ替わるようにして、ユウリがペンやインクをテーブルに置いていく。


「栽培の難しい香草だと伺っています。そのような希少品を度々頂戴するのは」

「なにを他人行儀な。わしは君の舅、家族となるのだ。遠慮はいらん」


 申し訳なそうに告げたナリトへ、ローナンシェ大公は懐の深さを示すように片手を振った。


 ――家族。


 教会領に戻ったとき、ナリトも加えてほしいと言っていた。家族とは、毒草で操ってなるものだろうか。少なくとも、あんなに苦いだけの塊をナリトは望んでいないはずだ。


 もし解毒が不完全なら。もしタルブデレク大公が署名しようとしたら。


 ――邪魔しよう。


 誓約書を汚したり破ったりしてしまえば、今日の調印式は中止になるはずだ。


 ジルが拳を握り込んだのと同時に側近が戻ってきた。手のひらには一つの紙箱が乗っている。あのなかにシアルトラングの茶葉が入っているのだろう。側近がローナンシェ大公へ渡すよりも先に、席を立ったレイチェルが横から四角い箱を抜きとった。


「これは、わたくしがおまじないを掛けて完成するのよ」

「おまじない?」


 ナリトの問い掛けに一瞬、ローナンシェ大公の顔が強張った。しかし、レイチェルの瞳には想い人しか映っていないようで、自信たっぷりに胸元へ手を当てて答えた。


「わたくしの魔力は聖だから、魔法をかけておくと茶葉の効能が高まるとお父様が教えてくださったの」

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