268 刻限と足
原状に復するため、大公夫人側の扉には鍵をかけなかった。
ジルは廊下にいる衛兵に気取られないよう、まさに泥棒のような足取りで室内を横断する。足を止めた先にあるのは、バルコニーへと続くガラスの扉だ。
セレナは零時を過ぎたら神殿騎士たちに話すと言った。そうなれば二人は大公の寝室に乗り込んできただろう。秘密裏にという作戦は失敗し、ジルは廊下側の扉から堂々退場となったはずだ。
――間に合った。
解毒後すぐに退室していれば、もう二十分は余裕があったかもしれない。宿泊客のいない寝室にある時計は日付変更十分前を指していた。
忍び込んだ以上、正規の出入口は使えない。月影色のカーテンに手を差し込み掛け金を外せば、心地よい風に乗って虫たちの演奏が流れてきた。侵入の痕跡を消すためにこちらのガラス扉には鍵を掛ける必要があるのだけれど、生憎ジルは窃盗を生業にはしていない。うっかり掛け金をかけ忘れたことにして貰おう。
――助走がちょっと短いけど。
半円を描くバルコニーの手すりを掴み、ジルは走った勢いのまま夜へと足を放り出した。大公夫人の寝室は宮殿の二階。着地の体勢にさえ気を付ければケガなんてしない。たとえ痛めたとしてもジルには自己回復がある。なにも問題はない、と思っていたのだけれど。
「あ、ありがとう、ございます」
「あとのことも考えろ」
二度あることは三度あった。頑丈な体のうえに着地したジルは、ため息交りにラシードから叱責された。考えた結果がバルコニーからの脱出だ。しかし、ジルを受け止めた護衛騎士は気に入らなかったらしい。
――心配してくれたのかな。
とはいえ、なぜラシードはここに居たのだろうか。疑問に思い朱殷の瞳を覗き込めば、軽く睨まれた。近い。ひとまずここから降りたいとジルが身を捩るとラシードはすんなり解放してくれた。地に足を付け、では尋ねようと見上げたとき頭上の口が先にひらいた。
「不自然な騒ぎを起こせば見当くらいつく。あの神官はお前みたいに粗忽じゃない」
「そこつ」
しれっとけなされた気がするけれど、セレナへの評価は正しい。つまりラシードは、廊下に落ちる書物の音に違和感を覚え現場を確認。持ち場を離れた衛兵、ジルを伴っていないセレナを見て、大公夫人の寝室に侵入したのではと推測したのだろう。ジルが問う前に答えた事といい、理解度が深い。
「扉から出てくるとは思わなかったのですか?」
「それができるなら初めから忍び込まないだろう。それに、あっちはデリックが見張っている」
「見張り?」
「お前の声が聞こえたら扉を蹴破ると言っていた」
「えっと……デリック様は今、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「タルブデレク大公閣下の寝室の前だ」
――あっ、ぶなかったあああ。
止めていた息をジルは一気に吐き出した。ラシードが勘付いたのだから、デリックが気付いても不思議はない。しかし解毒のことは伝えていないのに、その部屋の外に待機されているとは思わなかった。声を出さないよう注意していたとはいえ、セレナが提示した刻限前に大騒ぎになるところ。
「ラシード様、戻りましょう!!」
返事も聞かずジルは宮殿の入口へと駆け出した。計画はまだ完了していなかった。時計が零時を指す前にセレナへ報告しなければデリックが動き出してしまう。最短距離を選び階段、廊下を走る。夜中に足音を響かせるのは得策ではないため、途中で靴は抜いだ。
「た、ただいま帰りましたっ」
「エディ君!」
靴を両手に持ったまま、がばりと騎士服の背中に抱きついた。駆けてきたジルに驚いたのだろう。部屋から見送っていたセレナ、肩越しに振り返ったデリックも目を丸くしている。
「大丈夫です。問題なく、終わりました」
こちらもどうにか間に合ったようだ。視界にいないだけで誰が聴いているか分からないため、ジルは解毒という言葉は使わなかった。デリックを引き留めようと体に回していた腕を放し、少し荒くなった呼吸を整える。そうしている間にラシードも合流した。
こうなっては仕方がない。廊下で立ち話は目立つからと場所をセレナの客室に移し、ジルは一連の件を神殿騎士たちにも話した。ただし、解毒の方法は聖魔法を使ったとしか言っていない。
「そのままで良かったのに」
「ああ」
心の底から湧き出たようなデリックの感想を、ラシードは即座に肯定した。二人の反応に、もしかして自分は余計なことをしたのだろうか、と思いかけてすぐに否定する。
幻覚にかかったナリトをジルが見たくなかったから、解毒したのだ。自分の為であって、誰の為でもない。
「あとは婚約がどうなるか、明日を待つだけだね」
聖女一行は部外者だ。婚約の調印式には出席しないため、宮殿内でいつも通り過ごす予定になっている。時間も遅いから今夜は休もうとセレナが話を締めると。
「寝る前に足、綺麗にしとこう」
少し待っててと部屋を出て行ったデリックは、桶とタオルを手にあっという間に戻ってきた。強化魔法をかけて疾走したのだろう。デリックは扉をしめるなり椅子に座っていたジルの足元に跪いた。
「じ、自分で洗えますから」
「手短にお願いします」
ジルの訴えはセレナの耳にしか届いていないらしい。困ったような諦めろと諭されているような笑みだけが返ってきた。くすぐったいやら気まずいやら、いたたまれない。なぜかジルの両足は、神殿騎士たちに拭われていた。




