266 扉と扉
晩餐が終わり、ジルとセレナは宮殿に戻っていた。ローナンシェ大公に誘われたナリトは離宮の談話室へと移動していった。そこには当然、ユウリも付き添っている。
「だからセレナ神官様には、衛兵さんの注意を引いて欲しいんです」
客室に用意されていた料理のなかからパンを選んで素早く食べ、それなりの早さでジルはデザートを堪能した。もったいないけれど、花のように盛りつけられた魚や、パイに包まれた肉を食べている時間はない。
いつ宮殿の寝室に、タルブデレク大公や側付きが戻って来るか分からないのだ。
ジルがナリトの現状を説明すると、セレナは驚くよりも先にスッキリしたという表情をみせた。ジルを言動の中心に据えているナリトがそう簡単に心変わりするはずが無い、だから演技をしているのだろうとセレナは考えていたそうだ。
――私は本人から聴いてたのに。
その場にいなかった第三者であるセレナの方が、ナリトを信じていた。その負い目が一層、解毒しなくてはとジルを駆り立てる。
「零時を過ぎてもエディ君が戻って来なかったら、デリック様やラシード様に報せるからね」
門限は絶対だと厳しい顔で答えたセレナに、ジルは感謝を返した。ナリトは秘密裏に進めたくてユウリにしか計画内容を話さなかったのだ。せっかくローナンシェ大公を誘い出せたのに、ここで騒ぎを大きくしてはきっと台無しになってしまう。
先に客室を出たジルは、扉を護る衛兵の視界に入らないようぐるりと宮殿内を大回りして廊下の柱に身を隠した。打ち合わせた通り、ほどなくしてたくさんの書物を抱えたセレナが姿を現した。顔の高さ以上に積まれた書物はぐらぐらと揺れながら衛兵の前を通り過ぎていく。
客室へと続く廊下の角を曲がろうとした直前、小さな悲鳴と共にバサバサバサバサとまるで鳥がでたらめに羽ばたきながら落ちていくような音がした。セレナが書物を落した場所は、衛兵からそう遠くはない。護っている部屋の主はいない。
――融通のきく人でよかった。
持ち場からは絶対に離れない。本来はそれが優秀な衛兵なのだろう。しかし、やさしい衛兵は書物を落したセレナに駆け寄って行った。その隙にジルは扉に手をかけ体を滑り込ませる。
小さくカチャリ、と扉の閉まる音が薄暗い大公夫人の寝室に響いた。
一ヶ月ほど前まで利用していた寝室の間取りは変わっていない。分厚い絨毯に足音を吸い込ませ、知らない化粧道具の並んだ鏡台を横切る。月明りに目を凝らして壁の装飾に手を掛ければ。
――あいた。
大公の寝室へと続く直通路の扉は音もなくひらいた。レイチェルは鍵を掛けていなかったようだ。それの意図するところ、もしかして二人は、と浮かんでくる想像にジルは頭を振った。ユウリに諫められていたではないか。ナリトはレイチェルの名誉を傷つけたくないと言っていた。
今しがたくぐった扉を閉め、ジルは魔石ランプの灯った窓のない狭い通路を進んだ。突き当たったのは、暗褐色の艶やかな扉。ここの鍵は持っている。存在を確かめるようにポケットの上から手を添えて、ジルは眼前の扉へと手を掛け。
――あかない。
肩の力が抜けた。よく分からない、ふわふわゆらゆらとした気分のなかジルが鍵を差し込めば、何の抵抗もなく扉はひらいた。
直通路から漏れた灯りは、誰もいない大きな寝台に光の絨毯を敷いた。こちらの空間に入るのは初めてだ。扉のない間仕切りの向こう側には、以前訪れた居間がある。無事に侵入できた。あとはここでナリトの帰りを待つだけだ。
――ここが一番近い。
違和感を与えないよう直通路の扉を元の状態に戻したジルは、豪奢な寝台のしたに潜り込んだ。滑らかな布をたっぷりと使用したカバーは、まるでカーテンを引いたようだ。ジルは今、夜陰にすっぽりと覆われていた。
不法侵入している自覚はある。まるでレイチェルに言われた物盗りのようだ。でも、解毒する前に部屋を追い出されるわけにはいかないのだ。月明りも届かない寝台のしたに隠れて、どのくらいの時間が経っただろうか。神殿騎士たちが乗り込んでこないから、まだ日付が変わっていないのは確かだ。
時計は見えないだろうかとジルが身を捩ったそのとき、部屋の奥で扉のひらく気配がした。
ユウリの声がして、次いでナリトの声が聞こえる。お茶、着替え、時間、同席。ジルの耳は断片的な言葉しか拾えなかった。
二人の声以上に、近くで鳴る心音のほうが大きいのだ。大丈夫だ、気付かれていない。
やがて話し声は止み、再び扉のひらく気配がした。絨毯を踏む静かな足音が近づいてくる。部屋の主は眠りにつくようだ。魔石ランプが消え、ジルの上にある大きな寝台から布の擦れる音がした。
――まだ早い。
動くのはナリトが深い眠りについてからだ。息を潜めて気配を窺う。衣擦れの音さえしない室内で、ゆっくりと繰り返される呼吸が聴こえてきた。予想よりも随分と早い寝つきだ。疲れているのだろうか。晩餐会のあとも、ローナンシェ大公と一緒に酒を飲んだのかもしれない。
それでもナリトはあの日と同じ、寝台のうえで整った彫刻のように横たわっていた。




