265 離宮と親子
クレイグの部屋でジルが毒豆を入手した翌日の午後、レイチェルの父親であるローナンシェ大公が離宮に入った。流れ聞こえてきた使用人たちの話から推測すると、ローナンシェ大公は速度重視で護衛兵や荷物は最低限しか携えていなかったようだ。
ローナンシェ大公夫人や長兄は婚約披露の夜会に旅程を合わせ、観光も兼ねて安全第一に進んでいるらしい。離宮で開かれた歓迎の晩餐会には、エヴァンス公爵家の当主と一人娘のみ出席している。
離宮という名の通り本邸である宮殿に比べると建物の規模は小さいけれど、調度品の質や華麗な内装はまったく引けをとらない。
円形テーブルの置かれた食堂には、聖神官であるセレナも陪賓として招かれていた。主人に付き従うのがジルの役目だ。神殿騎士たちも護衛についており、今日はジルと同じように壁際で控えている。土の大神官であるクレイグの姿はない。恐らく出席を拒否したのだろう。
「セレナ聖神官は平民出身と聞いておったが、まるで貴族のようじゃないか」
「教会領にいたのだから、できないほうがおかしいわ」
「短期間で身に付けた彼女の努力は賞賛に値するものだよ」
大袈裟に両手を広げてみせた父親へ、娘はなにを驚いているのかと冷ややかな視線を向けている。向かい合って座った二人の容貌はあまり似ていない。肉付きのいい、がっしりとしたあごを持つローナンシェ大公の髪は錆色で白い毛が交ざり始めていた。どうやらレイチェルの髪色は母親譲りのようだ。そんな二人の間に座ったナリトは微笑みを湛えたまま、エヴァンス親子の発言を取りなした。
セレナは礼儀に則って挨拶し、使用人が引く椅子に座って、ローナンシェ大公のあとに続いて食事を始めただけだ。
「勤勉は平民の美徳だ。どうかなセレナ聖神官。レイチェルがタルブデレク大公へ嫁いだら寂しくなる。次はエヴァンス家へ来ないかね」
「お誘いありがとうございます。リシネロ大聖堂に戻ったら、確認してみます」
教会領所属だから一存では決められないと言外に含ませて、セレナはやんわりと断った。だというのにレイチェルは、はっきりと言わなければ気が済まないらしい。
「わたくしは反対よ。従者に身支度をさせる聖神官なんて不潔だわ」
――同室だから、勘違いされるのは仕方がないけれど。
「従者? 教会は侍女を付けておらんのかね」
聖神官には通常、連絡役を兼ねた女性の使用人がソルトゥリス教会から派遣される。その連絡役という名の監視がセレナには付いていないのかと、ローナンシェ大公は訝ったのだ。
「外出する機会が多いので、護衛も兼ねて従者を選びました。私は平民なので、身の回りのことは自分でできますから」
今度ははっきり勘違いだと告げたセレナに、レイチェルは冷笑を浮かべる。
「あの貧相な体で本当に護衛なんてしてるのかしら」
「彼は神殿騎士団で従卒をしていたから、剣を扱えるのは確かだね」
「ほう、ではその従者も魔法が使えるのか」
「騎士様に負けないくらい強いです!」
ジルの主人は自慢だとばかりに胸を張った。醜聞の種をまくだけでなく、咲き誇って貰えるものがあって良かった。話題が変わりほっとしていると、不意にローナンシェ大公が振り向いた。
「思えば、聖女様の護衛騎士殿も銀の髪をしておったな。ふむ、どうだ我が兵団で鍛えてみんか。籠のなかにいては剣など振れぬだろう」
レイチェルの目の色は父親譲りのようだ。領主というよりは商人のような愛想笑いを浮かべた赤煉瓦色の瞳の奥で、金色が鈍く光った。
「セレナ聖神官も見識を広めたいだろう? 教会にはわしが申請を出す。レイチェルの婚約披露が済んだら共に発とうではないか」
――知ってるんだ。
娘から聴いたのだろうか。セレナとジルは、タルブデレク大公夫人の寝室に居た。居たのだけれど、今はそこにレイチェルが入っている。聖神官という立場から丁重に扱われてはいるけれど、ナリトに捨てられたのだから、ここには居られないだろうとローナンシェ大公は言いたいのだろう。
なにも知らなければ、二人を気遣っているように思える。しかし、幻覚作用のある毒草茶をレイチェルがナリトに飲ませていると分かった今、ローナンシェ大公の言葉は素直に受け取れない。
――人質、かな。
シアルトラングの幻覚が解けた際の保険。ナリトの寵愛を得ているセレナを盾に婚約の継続、成婚の強行を謀るつもりなのだろうか。しかし、そうまでする理由がジルには分からなかった。
こうしてタルブデレク領にやってきたということは、ナリトの計画にローナンシェ大公はまだ気が付いていないのだろう。
貴族の婚姻には権力派閥や金銭が絡むというから、領主としても縁続きとなるのは利点が大きいのは分かる。とはいえ、タルブデレク大公を毒で操らなければいけないほど、ローナンシェ領は困窮しているのだろうか。
――魔宝飾店が閉まってたのも影響してるのかな。
故郷を離れて九年も経つジルに、そこで暮らす者の内情までは知れない。それとも経済など関係なく、娘の願いはなんとしてでも叶えてやりたいという親心なのだろうか。
ジルがローナンシェ大公の真意を量りかねている間にも晩餐は続いており、話題は二人の惚気話へと変わっていた。
今夜はレイチェルも離宮に泊まるらしい。親子団欒で旅の疲れをゆっくりと癒し、誓約書への調印は明日おこなわれるそうだ。




