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傾界の聖女  作者: たま露
【水・土の領地 編】
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263 命令と拒否

 二人に嫌われたのではなかった。


 クレイグは離れていかない。毒の中和剤もみつかったと言っていたから、ナリトの症状も治るのだろう。それが分かりほっとしていたジルは反応が遅れてしまった。


 気が付けば首を傾げたクレイグに覗き込まれていた。赤みを帯びた夕陽の瞳はきらきらと眩く、焦茶の瞳はチョコレートのように艶めいていた。嬉しそうに頬を緩ませたクレイグは大変愛らしく、ジルにとっては凶器だ。長い前髪がなくなり、威力も増している。


 ――軽々しくするものじゃない。……でも、冷たくされてばかりなのは。


 反射的に返したけれど、これを続けていたらクレイグは本当に離反するかもしれない。ジルもナリトから拒否されたとき、あんなに気落ちするとは思わなかった。


 時々は、要望に応えるのも必要だ。


「そこに、座ってください。手は膝の上に置いて、私が許可するまで動かないでください」


 覚悟を決めて机の前にある椅子を指し示せば、クレイグは言われた通りに座った。理由も告げずにジルは動くなと命令したのに、嫌がる素振りもない。それでいいのか将来が心配になったと同時に、手遅れだったと思い出した。


 色の異なる双眸が、静かにジルを見上げている。自分からするのは二度目とはいえ、対象は異なっているし慣れるものではない。じっと見られているのも落ち着かない。じわじわと顔に熱が集まっていく。


「あの、目を閉じて貰えますか」

「嫌だ」


 ――座るのは拒否しなかったのに!


 物理的に縛っているわけではないけれど、拘束にも似た状況で視覚まで奪われるのは恐怖だろう。クレイグが嫌がるのも当然だ。ならば仕方がない。ジルは戦いに臨むような心持ちで深呼吸を繰り返し、クレイグへ近づく。


「な、っ」


 一挙一動に注目していた橙色の瞳を素早く手で覆い隠し、左目の瞼にキスをした。


 軽く触れるだけのものだったけれど、ジルの唇が触れた瞬間、クレイグの薄い瞼が震えたのが分かった。


 目を閉じてくれないのなら、ジルのほうから塞いでしまおう作戦だ。胸に手をあて完遂できた達成感に浸っていると、下方から不機嫌な声が上がった。


「動いていい?」


 椅子に座ったクレイグの顔は真っ赤になっていた。眉間に深い皺を刻み、髪から覗く耳まで赤くしてジルを睨んでいる。クレイグは拒否していたのに、ジルは問答無用で視界を奪ったのだ。これはもしかすると、相当怒らせてしまったのではないだろうか。


「ダ、ダメです!」


 ここで解放すると何が起こるか分からない。魔法石のイヤリングは着けているけれど、医薬研究所でなんて発動できない。なにかクレイグを宥める方法は。


「クッキー! クッキー食べますかクレイグ大神官様! はい、あーん」


 机に置かれた袋が目に入った。苦いカカオクッキーを一枚取り出し、不満に曲がった口元へ寄せる。クレイグの唇はさらに大きく歪んだあと、歯を立ててクッキーを齧り割った。試作品を食べた時のように無心でかみ砕き、ため息をはいている。


「なにこの拷問」

「ああ! 弟にする癖でつい、申し訳ございませんでした……!」


 人に食べさせられるのは恥ずかしいことだと学習していたのに。尾を引いている恥ずかしさと焦りからジルは失態を重ねてしまった。律儀に座ったままのクレイグへ頭を下げると、またため息を落された。


「いい。このまま話す」

「まだ、何かあるのでしょうか?」


 あとはナリトに中和剤を飲ませるだけのはずだ。シアルトラングの幻覚が解ければ、タルブデレク大公が婚約に調印することもない。毒草茶を飲ませたレイチェルには、しかるべき措置がとられるはずだ。


 ――でも、どうして。


 クレイグから話を聴いた当初、ジルはすぐには信じられなかった。ゲームでライバルとして登場したレイチェルは堂々とヒロインに対峙し、毒を使用する場面などなかったのだ。負けた時でさえ嫌味、に聴こえるけれどその実は忠言という台詞を残して去っていくだけだ。


「中和剤は毒を摂取してから六時間以内に服用しないと意味がない」

「それは、え、ナリト大神官様は」


 まさか間に合わないのだろうか。人形のような顔色に戻ったクレイグを見て、ジルの上気して浮ついていた空気はしぼんでいく。


「あいつには従者が毎晩飲ませてる」


 空気が吹き込まれ、しぼんでいたジルの背筋は伸びた。しかし引っ掛かりを覚えて首を捻る。


「毎晩? カライト様は毒草茶だとご存じなのですか?」

「毎日あの女と午後に茶会してるから。だから毒が蓄積して中和の効果が薄くなってる」

「そんな、どうして止めないんですか!?」


 クレイグは部外者だから難しいとしても、ユウリはタルブデレク大公の側付きだ。害があると知りながら主人に飲ませ続けるのは、背信行為ではないのか。そうでなくともナリトの異母弟は毒で亡くなっている。実母に続き婚約者候補までもが毒に手を出したと知ったら、ナリトはどう思うだろうか。


「それが主人の命令だから」


 クレイグは呆れとも嘲笑ともつかない顔で鼻を鳴らし、ユウリから聴いたという計画をジルに説明した。

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