262 幻覚と服従
視点:クレイグ
クレイグはいつも見習いを怒らせていた。一時は完全に嫌われていた。自分が負けているのは明白なのに、言語で表すまえから苛立たしいのに、ナリトが羨ましくて尋ねていた。
自分も他の女を好きになったと言ったら、見習いは悲しんでくれるだろうか。
否定されたら話はそこで止めて宮殿へ帰すつもりだった。それは嫉妬に他ならないが、クレイグがナリトを気遣ってやる義理もない。むしろ競争相手が減って嬉しい。
しかし見習いは、クレイグが欲しかった言葉をくれた。
それだけではない。常人なら不気味に思い距離をとるだろう言動にも手を伸べてきた。クレイグを他の人間に渡すまいとマグを差し出し、紫水晶の瞳を綺麗に曇らせている。この中身が猛毒なら、見習いの記憶に自分は残り続けるだろう。互いを縛りあう児戯が心地いい。
だからこそクレイグは、ユウリに頼まれた内容を見習いに話そうと決めた。
このままタルブデレク大公とエヴァンス公爵令嬢が婚姻を結べば、見習いの心にはナリトが住み着いてしまう。好意を持たれているのに、後悔まで向けられるなんて過量投与だ。
この香草茶に即効性の毒は含まれていない。これ一杯を飲み干したところで到底、致死量には満たない。
ローナンシェ領の北部にだけ自生する植物、シアルトラングの幻覚作用は一過性のもので三日も経てば症状は軽くなる。それはユウリが置いていった押収品の茶葉を使って実証済みだ。
乾燥させたシアルトラングの成分を湯で抽出しただけなら、毒は多様な幻覚をみせるに止まる。しかし事前に茶葉へ魔力を注いでおくと、幻覚を操作できると魔素信仰者が所持していた紙切れには記されていた。
服用者の心を最も占有している存在に、自身を置き換えるのだ。恐怖に支配されているのなら、畏れを与える存在に。恍惚に支配されているのなら、愛を与える存在に。そうして記憶をすり替え、服用者を服従させる。
今のナリトには全身で好意を示してくるレイチェルが、愛を乞うた人に見えているのだ。精製者の名付けた通りこの毒は、女神の福音だ。
三ヶ月前、シャハナ公爵邸を訪れた時は中和剤などなかった。そのため毒素の吸収阻害、排出を促す薬を対症療法として挙げていたが。
――物証が欲しいからって毎日飲むなんてバカげてる。
即効性はないが毒は確実に蓄積していく。初めは軽い幻覚症状でも、いずれ重い意識障害を引き起こすのは医薬研究を推進している当主なら分かりきった事実だろうに。
――そうなる前に片が付くと判断したのか、研究員を信頼してるのか。
確かにシアルトラングの毒を中和する物質はクレイグが参画する前から発見されていた。投与試験もおこなわれており、中毒の阻止も確認されている。
「フドド廃鉱で見つけた紙切れ覚えてる?」
「フドド廃鉱?」
まったく想定していない質問だったのだろう。光沢を取り戻した紫の瞳は記憶を探すように上を向いた。先ほどの仄暗い姿は綺麗だったが、今の無防備な姿は可愛らしい。見習いとの約束があって良かった。でなければ今ごろマグの中身はすべて寝台に零れていただろう。
「女神の、福音……とか書かれていた紙でしょうか?」
「そう。その毒草茶がこれ」
「えっ?! あっ、ダメです!!」
思わずといった様子でマグから身を引いた見習いは、またすぐに両手を伸ばしてきた。クレイグの手から毒草茶を奪い取り、視界から隠すように抱え込んでいる。飲め飲むなと忙しない。
「うん。もっと強いのがいい」
「なにを言って、というか毒草茶なんて、どうしてこんなものがここにあるんですか!」
「あの女が持ってた」
「…………エヴァンス公爵令嬢、ですか?」
見習いは半信半疑といった様子だ。毒草茶を飲んだナリトが今どのような状況にあるのか。それを知った見習いの反応は想像に難くない。とても面白くない。
しかし、自分以外のことで悲しむ見習いを見るのは、もっと面白くない。
「シアルトラングには幻覚作用がある」
クレイグは毒の効果を見習いに話して聴かせた。不可解一色だった顔は驚きに染まり、女神の福音と名付けられた由縁を説明した時は、頬に朱をのぼらせた。レイチェルに接していたナリトの様子を思い出しているのだろう、あちらこちらへと目を泳がせている。
「安心した?」
分かっていたことだが、やはり面白くない。不機嫌を通り越して思いのほか冷たい声になってしまった。怖がらせてしまっただろうか。見習いは体を強張らせ、そろりと口をひらいた。
「クレイグ大神官様も、そのお茶を飲んだから……エヴァンス公爵令嬢を、好きになったのでしょう、か?」
見習いの頭のなかは、ナリトで一杯だと思っていた。
自分の事も気に掛けてくれていた。クレイグの冷えていた心に喜びが混ざり、溶け込んでいく。不安そうにマグを握り締め、返事を待っている見習いが堪らなく可愛い。
「反応がみたくて嘘ついた。オレが好きなのはジルだけ」
「え、あ、は」
驚いて、認識して、反応に迷っているといったところだろう。クレイグは寝台から立ち上がり、見習いの手からマグを抜きとって机に置いた。混乱に乗じて尋ねたら思わぬ許可が貰えるかもしれない。
「キスしていい?」
「っ、ダメです!」




