261 お茶と毒杯
ナリトの返事を聞いたとき、ジルは泣きそうになったわけではない。ただ少し、寂しいと感じただけだ。
一介の神官見習いが、水の大神官について好嫌などと言える立場ではない。
初めから、誕生日祝いはいらないと言われていた。クッキーはジルが勝手に作っていただけだ。婚約は二人が望んだのだ。ナリトは幸せになるのだから、ジルは心から祝福しなくてはいけない。
教会領で、水の聖堂に誘われたのも。ガットア領で、好きだと伝えられたのも。タルブデレク領で、望んでいるのは自分だけだと言われたのも。ジルはすべて断っていたのだ。
――あの時と、同じだ。
エディに求婚したデリックの話をしたとき、ナリトはこの気持ちを妬くと表現していた。自分が寂しく感じるから二人の幸せを喜べないなんて、なんて醜い感情なのだろう。
「ほら、泣きそうになってる」
「なってま、っ……にがぃ」
半ば意地になって反論しようとした口にクッキーを差し込まれた。サクリと割れた生地は焦げているのではと思うほど苦い。吐き出すわけにもいかず、ジルは炭のようなクッキーを飲み下した。作った自分が言うもなんだけれど、これを好んで食べているクレイグの味覚は理解できない。
クレイグは欠けたクッキーを食べながら、先ほどフタを閉めた瓶を手にとった。茶葉はジルがヤカンだと思った道具にではなく、ガラスのコップに入れられている。その横にある火にかけられた銅製のマグからは湯気が上っていた。
「そこの湯で淹れて」
そう言ったクレイグはジルに場所を譲り、自身は寝台の上へと腰掛けた。口のなかにはまだ苦みが残っている。ちょうどお茶を飲みたかったジルは言われた通りにガラスのコップへ湯を注いだ。乾燥した葉は熱のなかで踊り、ゆっくりとひらいていく。茶葉には花も含まれており、湯気にのってふわりと甘い香りがした。
この茶葉の大きさなら蒸らしは三分程度だろう。それから網で茶葉を漉すと、少し緑がかったお茶が完成した。紅茶よりも薄い色合いだけれど、香りは立っている。ジルはこのままガラスのコップで頂くことにして、クレイグへ渡す分はお湯を沸かしていたマグを再利用した。
「これに毒が入ってたらどうする?」
「なっ、そんなもの入れてません」
クレイグはジルの反応に構わず、お茶に視線を落としていた。まるで毒を溶かし込むように、ぐるりぐるりとカップを持つ手が動いている。
「たとえ毒が入ってても、飲んで欲しくてジルが淹れたんならオレは飲む」
いつもと変わらない調子で宣言したクレイグは、マグを口元へ運んだ。
茶葉や水、道具はこの部屋にあったものしか使っておらず、クレイグは淹れる様子をずっと見ていたはずだ。それでも言いようのない不安に駆り立てられたジルは、思わずクレイグの手ごとマグを掴んでいた。押さえた衝撃で、ちゃぽんとお茶が零れ落ちる。熱い胴に触れた指先がちりりと痛い。
「なにを、仰りたいのでしょうか」
ジルはお茶に毒など入れていない。例え話だとしても、毒を盛られたと知りながら呷るなど恭順の範疇を超えている。手に掴んでいるのがただのお茶でも、クレイグが毒杯に見立てているのなら飲ませるわけにはいかない。ジルの問い掛けに、落ちていた視線が上がった。
「ここの領主はバカだってこと」
「領主?」
クレイグのいう領主とはナリトのことだろう。今のやり取りがどう繋がるとそんな評価にたどり着くのか。確かにタルブデレク大公は毒と因縁がある。しかしそれはナリトが愚かだからではない。ジルが思考を巡らせるなか、クレイグの視線は再び下に落ちた。
「……オレも、あの女が好きになった」
俯いた顔は苦渋に満ちており、ジルは声も出なかった。先ほど狂信めいた言葉を捧げた唇が、今は別人への恋慕を紡いでいる。しかし、左目を貶したレイチェルを、クレイグが好きになるとは到底信じられない。前髪だって、ジルが好きな色だと言ったから。
――ああ、この考え方だ。
伝えてくれた好意の上で自分はあぐらをかいていた。ナリトにしてもどこか心の隅では、離れていかないと驕っていたのだ。まだ間に合うだろうか。
目的を達成するまでは、皆を捉まえておかなくてはいけなかったのに。
マグから手を放し、ジルは金糸に縁取られた眦をそっと撫でた。直後、寝台に座ったクレイグの顔が跳ね上がる。瞠った瞳には、しっかりとジルが映っている。
「私のことが、嫌いになりましたか?」
短くなった前髪をジルが整える間にも、本物の人形になってしまったかのように、クレイグはまばたきの一つもしない。
「クレイグ大神官様までいなくなったら、悲しいです」
「泣く?」
たくさんの想いに触れて、ジルは贅沢になってしまったようだ。クレイグ、ナリト、デリック、ラシード、ルーファス。いつの間に自分は、こんなにも強欲になっていたのだろう。弟一人がいれば、十分だったのに。
「寂しいです。引き留められないなら……」
呷って欲しい。ジルはクレイグの手ごとあたたかなお茶に両手を添え、口元まで引き上げた。




