259 もやもやとむかむか
レイチェルの言う通り、口に入れるものだからできる限りの配慮をジルはした。味は確かに素人が作ったもので、本職には到底かなわない。でも、受け取るか否かはレイチェルではなく、ナリトが決めることだ。
レイチェルが扇で口元を覆ったのと同時にすっと一歩を踏み出した、のはユウリだった。
「恐れながら、食材は料理長が責任をもって仕入れたものをご使用いただきました。また、ハワード君の申し出により、厨房にいる間は常に菓子専門の職人を見張りにつけております」
「そう。部外者がシャハナ家のものを使い、高位者に贈ってらしたの」
まるでジルが盗みを働いているかのような物言いだ。間違いは訂正しなければ、事実として扱われてしまう。冷ややかに細められた金色の瞳を見据え、ジルは姿勢を正した。
「食材費はちゃんとお支払いして、する予定です」
まだ、お金は渡していなかった。ユウリからは滞在中に消費した量をまとめて請求すると言われており、ジルは小計すら知らない。語気の弱まりを正確に聴き取ったレイチェルは小首を傾げ、ナリトへ歩み寄った。
「教会の指示だからって、いつまで居座るつもりなのかしら。主人が主人なら、従者も従者ね」
「食材も厨房も、僕の意思で使用許可を頂きました。セレナ神官様は関係ありません」
「その許可を出したのはユウリかな?」
これまで静観していたナリトが口を挟んだ。側付きはどうやら当主に話を通していなかったらしい。ここで肯定したら自分のせいで、ユウリは叱責されるかもしれない。しかしジルはすでに許可を得たと発言している。先ほどのは嘘だったと答えるのが。
「クラメル聖神官様、ハワード君の両名が不自由のないように手配しろとの命に従い、私が許可致しました」
「……ああ、そうだったな。今後もその対応で構わない」
「もう! そうやってナリトお兄様が甘やかすから」
「理由もなく厳しくする必要はないからね。それに、私が一番甘えてほしいのは君だよ」
砂糖をたっぷりと含んだナリトの声色に、頬を染めたレイチェルの顔はとけていた。自分は一体なにを見せられているのだろう。ユウリが責められずにほっとした半面、胸はもやもやとしている。
――鍵はもう、カライト様に預けよう。
この様子ではクッキーも受け取って貰えない可能性が高い。調理の時間や食材を無駄にしないため、確認しておいたほうがいいだろう。返答によっては別の誕生日祝いを考える必要がある。
「タルブデレク大公閣下に、質問がございます。もし僕が、お菓子を贈ったら……受け取ってくださいますか?」
「貴方まだそんなことを」
いち早く反応したのはやはりレイチェルだった。その怒りを宥めるように細い肩へ、やや骨ばった手が添えられた。水底の瞳がジルを見下ろしている。秀眉がわずかに寄り、おもむろに薄い唇がひらく。
「気持ちだけ、受け取っておこう」
色なき風に吹かれて、手にしたクッキーの袋がクシャリと音を立てた。迷惑だったようだ。頭を下げて回答の礼を伝えれば、もうここに用はない。医薬研究所へ行こうとジルが顔を上げたそのとき、誰かに手を掴まれた。
「なら全部オレが貰う」
「クレイグ大神官様?!」
目的地にいるはずの人物が目の前にいた。黄葉よりも鮮やかな金糸の髪が、魔石ランプの明かりを弾いて煌めいている。驚いている間にクッキーはクレイグの手に移り、からになったジルの手には。
「いらないんでしょ。なにしてんの」
クレイグに手を引かれたジルは、一歩しか進めなかった。繋がれた手の反対側、もう片方の手を、なぜかナリトに掴まれている。クレイグに指摘され初めて認識したのか、青い目が丸くなった。それから視線は手元に落ち、すぐに正面へと戻った。だというのに、ナリトはジルの手を掴んだままだ。
「まだ、話しは終わっていないよ」
「いま終わった。手放してくれない。オレ忙しいんだけど」
不機嫌なクレイグよりも、落ち着いてみえるナリトの方が握る力が強いのは、なぜだろうか。
「私が話していたのは彼だ。私が責任をもって送り届けるから、クレイグ大神官は先を急ぐといい」
「ナリトお兄様が従者を送迎するなんておかしいわ。貴方、早く手を離しなさい」
――はなす?
ジルはナリトの手など握っていない。勝手に掴まれたのだ。レイチェルの言葉の意味が分からなければ、ナリトの態度も意味が分からなかった。
ジルの胸に広がっていたもやもやは、むかむかへと変わっていく。大体ナリトは多忙だからとジルの対応をユウリに任せたはずだ。クッキーもいらないと言った。それなのにどうして自分を引き留めようとするのか。
レイチェルの言葉に従うようで少し癪だけれど、ジルは思い切り腕を引いてナリトの手を振り解いた。
「明日はローナンシェ大公閣下がお越しになるのでしょう。エヴァンス公爵令嬢とのお打ち合わせは済んだのですか。僕はクレイグ大神官様にご用事があって、医薬研究所へ向かっていたのです。タルブデレク大公閣下におかれましては、ご多忙のなかお時間を割いていただき、ありがとうございました。失礼いたします」
驚いた様子のナリトやレイチェルが言葉を発する前に、ジルはクレイグの手を引き黄金の絨毯を突き進んだ。すれ違いざまに見たユウリは珍しく、困ったような顔をしていた。




