257 愛しい人と少年
視点:ナリト
午前中に処理した物と同等の高さに積み上がった書類から長い影が伸びている。執務室に備えられた魔石ランプは、陽光を窓から追い出すように白い光を広げ始めた。
「警護体制の不備は外交問題に繋がる。こちらは明朝改めて指示を出す」
邸の警備を任せている兵団長に下がれと命じれば、傍に控えたユウリは計画書を受け取り、紙山の標高を上げた。
午後も半ばを過ぎると霧がかかったように考えがまとまらない。そう感じるようになったのはいつ頃からだっただろうか。そのためナリトは、比較的明瞭な判断ができる午前中に重要な案件を処理していた。
――疲れが溜まったかな。
思考の散逸はしても、これまで頭痛を感じたことはなかった。それが今日は朝から鈍い痛みを伴なっている。魔法で小さな氷を作りこめかみを冷やしていると、先ほど積まれた衛兵配置図が目に入った。
魔物は通常、教会領から遠いほど数が増え強力になる。変異体なる魔物も出現した昨今、戦力の乏しい地域へ多くの領兵を割き支援していた。練度が高く、統率のとれた兵は一朝一夕ではつくれない。そのため一部の衛兵も派遣しており、邸の警備を強化するには兵全体の配置換えが必要だった。
――好材料は被害報告の減少か。
近頃は変異体はおろか、上級ランクの魔物が出現したという報告さえない。中級、初級であれば以前の戦力に戻しても問題はないだろう。
しかし、魔物の襲撃によって減った税収は兵の配置換えなどでは回復しない。収穫量を睨みつつ備蓄調整をしている今、諸侯を招いて夜会を開催する余裕など本来はないのだが。
「わたくしとナリトお兄様の婚約披露ですもの、盛大で華やかなものに致しましょうね」
「ああ、暗い話題が多いからね。彼らにとってもいい気分転換になるだろう」
金色の瞳を輝かせ嬉しそうに微笑まれては、その希望を叶えずにはいられないのだ。
「そうだわ、お父様からお返事があったの。誓約書と一緒に追加の茶葉を持ってきてくださるって」
「ありがとう。どうやら疲れが溜まっているみたいでね、助かるよ」
「まあ、根を詰めてはお体に悪いわ。お仕事は終わりにして帰りましょう?」
愛しい人にそう気遣われ手を引かれては、机の前から離れないわけにはいかない。そのままレイチェルとソファに座り直したナリトは、馬車の用意が整うまで歓談に興じた。
◇
「おかえりなさいませ、旦那様、レイチェルお嬢様」
宮殿の両扉がひらくと使用人たちがナリトを出迎えた。夕焼けの色が残る彼誰時。薄暗い足元は危ないからとレイチェルをエスコートして玄関ホールに入り、ただいま戻ったとナリトは労いの言葉を返した。
その見慣れた光景に、今日は見慣れない姿があった。使用人に交ざっていた銀髪の少年は、先日まで教会領に戻っていた聖神官の従者だ。わざわざ待っていたということは、なにか伝言があるのだろうか。
話しを聴くため歩みを止めれば、顔を上げた少年と目が合った。美しい、紫水晶のような瞳だ。中性的な面差しは、ともすれば少女のようにも見える。昨日の晩餐でユウリに向けていた笑顔は可愛らしかった。
こちらに近づいてくる少年の表情は硬い。どうすれば昨夜のような笑みをみせてくれるだろうか。まずは緊張を解くのが先かと微笑んでみせれば、無言の会釈とともに少年の視線はナリトから逸れた。
あの紫の瞳に今、己の姿は映っていない。
その事になぜか動揺を覚えた。足早に通り過ぎた銀の髪を追いかけて振り返れば、少年は後ろに控えていたユウリの前で足を止めている。二人は親し気に言葉を交わし、少年は小さな袋と手紙を渡していた。ナリトが再び見たいと思った、可愛らしい笑みを浮かべて。
――籠に入れてしまえば。
「っ」
そう思った瞬間、頭の痛みが強くなった。
「どうなさったの、ナリトお兄様」
婚約者となる愛しい女性がありながら、自分はなにを考えているのか。レイチェルはこんなにもナリトを心配しているのに。腕に添えられた細い手に自身の手を重ね、ナリトは後ろめたさを隠すように微笑んだ。
「なんでもないよ。部屋に戻ろうか」
「ええ。あら、あの子。次はユウリに取り入ってるのね。聖神官に仕えていながら公爵家で雇ってもらおうだなんて、品性を疑うわ」
ナリトがいつもの調子に戻り安心したのだろう。レイチェルは今、少年の存在を認識したとばかりに眉を顰めた。嫌悪も露わな愛しい人の言葉、それがナリトにはとても魅力的に響いた。
――主を変えてしまえばいいのか。
少年が仕えているのは聖神官、つまりソルトゥリス教会だ。契約の権利を教会から買い取り、シャハナ公爵家で雇えばいい。ユウリも少年を気に入っているようだから反対はしないだろう。自分の従者として育てれば、誕生日でなくとも常に。
「……誕生日?」
なぜここで誕生日などという単語が出てきたのか。それに、これではまるで愛妾を迎える算段を立てているようだ。少年であるため子をなすことはないが、それでもレイチェルに母のような思いはさせたくない。
「私が彼を雇うことはないよ。さあ、行こう」




