256 甘みと苦み
「予定が立て込んでいるためすぐのご案内とは参りませんが……状況が落ち着き次第、お声掛け致します」
平時と変わらない声音で答えたユウリは、ジルへ恭しく一礼した。この話題についてこれ以上話すことはない、そんな空気が醸し出されていた。
ナリトは毎日の政務に加え、三日後には年に一度の大神官総会、その八日後には誕生日を控えている。しかし臥ノ月一日に教会領で開かれる総会に出席するつもりなら、すでに出立していなければ間に合わない。誕生日も、庭園の解放や舞踏会はひらかないと言っていたから計画や調整といった業務はないはずだ。
そうなると、立て込んでいる予定は一つしか思い浮かばない。
「エヴァンス公爵令嬢とご婚約したら、でしょうか」
気が付けば口から零れていた。ジルの問い掛けにユウリは言葉を詰まらせている。目の前に立つのはタルブデレク大公の側付きで、ナリトと兄弟のようにして育った人間だ。否定しないということは、そういうことだろう。
「不躾でした。よろしくお願いします」
もやもやとした違和感はお腹がすいているからだ。早く部屋に戻って夕飯を食べよう。ジルはユウリの返事を待たず足早に客室へと引き返した。
◇
翌日の午後、早速ジルはセレナと共に厨房を訪ねていた。
神殿騎士たちには廊下で待機してもらって正解だった。調理器具や台、大きな食材保管庫が整然と並んだ空間は少し狭い。けれどその分効率よく動けそうだ。厨房にはジルたちのほか、洗い物をする使用人や書き物をする料理人の姿がみえる。
「甘くないお菓子ですか」
ジルの見張り役となった菓子職人は調理台のまえで訝し気な声を上げた。
貴族などの裕福な者にとって砂糖をふんだんに使用した甘い菓子は富の象徴だ。美しい見た目は当然のこと、いかに甘くおいしい菓子を作るか日々研究している職人に、ジルの要望は予想外だったのだろう。難しい顔をして考え込んでしまった。
「クッキーなら材料も手順も少ないから、失敗も少ないんじゃないかな」
失敗した分だけ食材は無駄になる。初心者のジルにおすすめな菓子はなにかセレナに相談していたところ、先の答えが返ってきた。続けてセレナは材料を挙げていく。
「小麦粉、バター、卵……は無くても大丈夫。お砂糖は蜂蜜でいいかな」
「蜂蜜の甘みは砂糖よりも強いですからね」
「そうなんですか?」
菓子職人はジルに頷くと、調味料らしき物が並んだ棚へ近づきながら教えてくれた。蜂蜜の甘みは砂糖の三倍。そのため費用を抑えるのには最適だけれど、蜂蜜をたくさん使用すると風味が変わってしまうため、使いどころを選ぶそうだ。
「甘味に蜂蜜を使用するなら、苦みも追加しましょう」
「お菓子なのに、苦いんですか?」
「適度な苦みは旨味となります。甘いものが苦手な方でも食べやすくなりますよ」
菓子職人が棚から取り出した瓶には茶色の粉が入っていた。これを使うと苦くなるのだろうか。ナリトへの贈り物にと考えた菓子だけれど、これならクレイグも食べられるかもしれない。ローナンシェ領で貰った菓子のお礼に渡せそうだ。
クッキーの贈り先を算段しているジルの隣でセレナが首を傾げた。
「なんの粉ですか?」
「カカオ豆です」
「カカオ!? わた、僕には高くて買えません……!」
カカオ豆はチョコレートの原料だ。市井に流通していない希少品をジルが購入できるとは思えない。それにチョコレートはとても甘い。それをわざわざ苦くするなんてもったいない、そう訴えれば菓子職人は笑い声をあげた。
「大量の砂糖が使われているからチョコレートは甘いのです。カカオそのものはとても苦いんですよ。それにカカオパウダーは少量しか使いませんから、そう驚くような金額にはならないでしょう」
試しに粉をなめてみますか、と菓子職人は瓶のフタをあけてみせた。セレナも信じがたいのだろう。顔を見合わせた二人は指の先に茶色の粉をつけ、恐る恐る舌にのせた。と同時に口元が歪む。
「「にがぃぃ」」
顔を顰めるジルとセレナの前で、菓子職人は可笑しそうに笑っていた。
◇
同じカカオを使用しているだけあって、チョコレートの色に似ている。煉瓦の窯から出てきたクッキーはこんがりというよりも、焦げた、という表現が似合う色をしていた。
「どうですか? 苦すぎませんか?」
ジルは甘い菓子が好きだ。カカオの粉を混ぜたほろ苦クッキーのおいしさはイマイチ分からない。セレナと菓子職人指導のもと初めてクッキーを作ったジルは、クレイグや騎士たちに試食を頼んでいた。
医薬研究所の閑静な談話室に、サクッと軽い音が立つ。
「もっと苦くていい」
「うまい!」
「不味くはない」
クレイグは甘いものが好きではない。デリックは多分、どんな味でもおいしいと言ってくれる。ラシードはコーヒーの時もこの感想だった。これは、あまり参考にならないかもしれない。
「私はもう少し蜂蜜を入れてもいいんじゃないかな、って思ったんだけど」
「甘みは抑えたかったので」
ジルも改めてクッキーを食べたけれど、やはりセレナの言う通り蜂蜜を追加したくなってしまった。クレイグへ渡す分はカカオパウダーを増やすとしても。
――取り分けておいてよかった。
ナリトの好みを一番把握しているのは、やはりユウリだろう。試食の礼を伝えたジルは、からになったカゴとクッキーの入った袋、それから一枚の紙を手に椅子から立ち上がった。




