255 歌劇と請求額
セレナを客室まで送ったジルは、主人たちと共に大食堂を後にしたユウリを探していた。
内緒の会話通り、部屋には晩餐で饗されたデザートが置かれていた。それだけではない、テーブルには前菜からメイン料理まですべて同じものが並べられていたのだ。これらを完食してからでは夜が更けてしまうと判断したジルは、料理には手を付けず再び壮麗な廊下を歩いていた。
庭園、礼拝堂、談話室、遊戯室、図書室。宮殿内だけでも候補は数多くあるけれど、ここから一番近いのは大公の寝室だ。そこにユウリの姿がなければ順に探して回ろうと記憶の地図を描いていると、目的地の方から男女の話し声が聞こえてきた。
ユウリとレイチェルだ。そう思ったが早いか、ジルは廊下の角へ隠れるようにして息を潜めていた。
「どうして、わたくしは婚約者よ」
「誓約書を交わしておりません」
「数日の違いじゃない。もう、ユウリは頭が固いわ。ナリトお兄様もそう思うでしょう?」
「大切に思われるのならばこそ、軽率な行動はお控えください」
そこで暫しの沈黙があった。二人はナリトの答えを待っているのだろう。場所、会話の内容から推測すると、レイチェルが大公の寝室へ入ろうとしてユウリに諫められた、といったところだろうか。
「私もレイチェル嬢の名誉に傷はつけたくない」
その言葉を聴いた瞬間、ジルの胸に安堵が広がったのはどうしてだろう。そもそもなぜ自分は立ち聞きのようなことをしているのか。やましいことは何もないのだから、堂々と会話が終わるのを待てばいいのだ。
廊下の角から足を踏み出した瞬間、低く玲瓏な声が再びジルの耳に流れてきた。
「それに、この関係も残り数日しかないのだと思えば、とても貴重な時間だよ」
壁がジルの視界から消えた瞬間、レイチェルの頭に口付けを落すナリトが映った。
藍墨色の頭上に長い黒髪の幕が下り、ゆっくりと上がっていく。たとえばこれが歌劇だと言われたらジルは信じただろう。幸福な結末を迎える二人は、幸せそうに微笑みあっていた。
それから二言三言会話が続いていたように思う。しかし三人が何を話していたのか、ジルは覚えていない。公爵令嬢が侍女を連れて去り、タルブデレク大公と側付きが寝室に入ってどのくらいの時間が経っていたのか。
「ハワード君?」
「わっ!」
急に声を掛けられて肩が跳ねた。ジルの驚きようにつられてユウリの目も丸くなっている。それからレイチェルの髪色に似た頭が小さく傾いだ。
「なにかお困りですか? 食器の片付けでしたら侍女へ」
「まだ大丈夫です! あ、えっと、料理を頂く前にお礼が言いたくて、カライト様を探していました」
食事のこと、寝室のこと。ジルがそれらについて感謝を述べれば、ユウリは腹部に左手を当てて軽く腰を折った。
「主の意を汲んだまでのこと。お困りごとがあれば、何なりとお申し付けください」
それはつまり、ナリトが直接ユウリに指示を出したわけではない、という事だ。ジルやセレナを賓客として遇してきたから、それを継続しているに過ぎない。しかしジルはなんの地位もない従者だ。タルブデレク大公の側付きだからこそ、未来の大公夫人の意を疎かにはできないのだろう。先ほどの晩餐会はきっとその結果だ。
だからといって、ローナンシェ領で起きた事をナリトに報告しなくてもよい、という理由にはならない。乗船の手配や髪染め、クレイグへの協力依頼など、タルブデレク大公にはお世話になったのだから。
「それでは二つほど、よろしいでしょうか?」
一つ目はナリトへの取り次ぎ。ユウリがどこまで把握しているのか不明なため、訪問地の様子を報告したい、とだけ伝えた。
二つ目は食材の購入と厨房の利用。ナリトには菓子を貰ってばかりだから、お返しがしたい。自分を見張り、完成した菓子は安全であると保証してくれる人を派遣して欲しいとお願いした。
ジルが要望を言い終えると、姿勢を崩さず耳を傾けていたユウリが口元を緩めた。
「畏まりました。菓子担当の職人を付けましょう。彼がいる時でしたら、厨房はいつご利用いただいても構いません」
まさか本職の人を紹介されるとは思わなかった。仕込みなどの忙しい時間帯は避けたほうがいいだろう。でも、料理人の目で確認して貰えるなら安心だ。
「食材はここにある物をお使いください。品質は確かです」
「贈り物なので、できれば自分のお金で用意したいのですけれど……」
「では、シャハナ家がハワード君へお売りします。消費された分だけご請求いたしますよ」
いかがですか、とユウリは笑みを深めた。有無を言わせない圧を感じる。公爵家のお眼鏡にかなった食材だ。請求額がこわい。しかし、素人が市場で買ったものよりもずっと安心できる。料理人を連れまわすのも気が引けたジルは、ユウリの提案に頷いた。
「ありがとうございます。使用した量を書きとめて、カライト様へご報告いたします」
二つ目の要望に関する話はまとまった。そういえば一つ目の可否を聴いていなかった、とジルが話題を促せば、笑顔を浮かべていたユウリの表情がわずかに陰った。




