253 当主と令嬢
「おかえりエディ君!」
「ただいま帰りました。セレナ神官様、ラシード様」
ジルが玄関扉をあける前にセレナが飛び出してきた。まるで戦地に赴いていた家族が帰ってきたかのような出迎えだ。セレナやラシードにもどこへ行くのか伝えていたから、心配をかけたのだろう。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるセレナにジルも腕を回して、落ち着かせるようにぽんぽんと背中を叩いた。
「連絡していなかったのに、よく分かりましたね」
「大丈夫かな、って毎日見てたから」
その一言で、海上で消耗した精神は全回復した。乗船中はカリカリのビスコッティを食べて気を紛らわせていたけれど、癒しの力はセレナにはかなわない。
ローナンシェ領の港町に到着し、運よく翌朝発の帆船に乗ったのが五日前。髪の染料は、タルブデレク領の港町に逗留していた使用人の部屋で落とした。ジルたちは復路でも魔物と戦うことなく、九ノ月二十八日の夕刻にシャハナ公爵邸へと帰ってきた。
セレナとラシードを除けば、宮殿の玄関ホールには見張りの衛兵しかいなかった。帰邸の先触れは出していないし、聖神官の従者が教会領から戻ってきただけだ。出迎えがないのは当然だろう。
「お二人のお陰で、無事に終わりました。セレナ神官様は、お変わりありませんか?」
聖神官であるセレナに無礼を働く使用人はいないだろう。しかし、ヒロインのライバル役であるレイチェルの存在が気になっていた。
「うん。私は大丈夫なんだけど……」
言葉に反して歯切れが悪い。桃色の瞳には困惑さえ浮かんでみえ、なにかが起きたのは明らかだった。セレナから言いづらいのなら、邸の主に訊いてみよう。クレイグの訪問や、土の神殿であった事も伝えなくてはいけない。
「タルブデレク大公閣下は、ご政務中でしょうか?」
玄関の外はクレイグの右目と同じ夕陽色に染まっていた。
大きな宮殿だから部屋が足りない、なんてことはないだろうけれど急な訪れだ。使用人たちも当主の許可なく宿泊はさせられないだろう。クレイグは街の宿屋でも、ここにある医薬研究所で寝泊まりしてもいいと言っていた。宿屋はともかく、研究所を訪れるのならそれこそナリトの許可が必要だ。
「うーん、そろそろ」
「あら、教会領からお迎えにいらしたの? 分別のない主人を持つと大変ね」
セレナが口をひらいたそのとき、背後からのびやかな高音が流れてきた。振り返らなくても分かる。この声はエヴァンス公爵令嬢だ。
気が付けば、主人を出迎えるため使用人たちが玄関ホールで整列していた。
瀟洒な青いドレスをまとったレイチェルは綺麗に巻かれた藍墨色の毛先を弾ませて、使用人によって開かれた両扉をくぐっている。微笑んだナリトにエスコートされて。
「用件は済んだのかな」
「はい。色々とご配慮いただき、ありがとうございました」
「こちらの方は? 我が領地の大神官に似ているようだけれど……女神と讃えるには少々くすんでいるわね」
クレイグの左目に視線を止めたレイチェルは、象牙色の扇で口元を隠した。父親はローナンシェの領主だ。土の大神官であるクレイグと、領主の娘であるレイチェルに面識があっても不思議はない。
しかし今は大神官の正装でなければ、貴族と対面するような上等な服も着ていない。なにより、長い前髪を切ったクレイグは焦茶色の瞳を晒していた。土の大神官に興味の無いレイチェルは、別人と判断したのだろう。
――だからって貶めていいわけじゃない。
「研究所に行きたいんだけど」
贋物と言われたに等しいクレイグは、眉ひとつ動かさずレイチェルの隣に立つナリトを見た。エヴァンス公爵家の令嬢が無視される状況など滅多に、否、一度たりともなかったのだろう。手にした扇が小さく震えている。そこへ、やや骨ばった大きな手が重ねられた。
「彼は土の大神官で相違ないよ。エディ君とは教会領で居合わせたのかな?」
怒りに染まりかけたレイチェルの頬が、今は恥じらいで上気していた。ただし、クレイグの地位を間違えたからではない。伏せられた金色の瞳は手元に落ちている。
「医薬研究所へは自由に出入りしていいよ。造詣の深い君ならいつでも歓迎だ」
「それはどうも。オレあっちに泊まるから。そこの従者、部屋用意して」
ナリトへ当然のように告げたクレイグはジルを見たあと、玄関わきに控えていたユウリへ声を掛けた。主人の傍を離れてよいものかとタルブデレク大公の側付きが迷っている間にも、クレイグの足は進んでいる。
「問題ない。クレイグ大神官の案内を」
「そうよ、ユウリ。ナリトお兄様のお世話はわたくしに任せてちょうだい」
「……畏まりました」
一瞬、ユウリが眉を顰めた。しかし口をひらいた時にはいつもの澄まし顔に戻っており、一礼したのちに玄関ホールを出て行く。その背を見送ることもなくレイチェルはナリトを見上げた。
「わたくし達も、お部屋に戻りましょう?」
「ああ、今日も共に居られて嬉しかったよ。ありがとう、レイチェル嬢」
寄り添う令嬢へ向けられた青い瞳は、とろりと艶めいていた。




