250 前髪と膝元
寝つきの悪かった翌朝。日課の素振りを終えたジルは、デリックと共に大神官の居室へ戻った。
土の聖堂二階にある応接室は、若葉のような浅い壁色をしている。部屋の中央には重厚な深紅のソファが置かれ、鮮やかな色調の対比が目を惹いた。
しかし、深紅のバラが咲いたようなソファは部屋の隅に追いやられ、ここ二日間は三つの寝台が鎮座していた。
空は明るくなったばかりで時間はまだある。出掛ける前に浴室を借りよう。そう考えたジルは長剣を真ん中の寝台に置き、応接室の扉をあけた。と、同時にのけぞった。
「どうしたんですかその髪!」
「切った」
左目を覆っていた長い前髪が、バッサリと短くなっていた。クレイグは焦茶色の瞳に劣等感を抱いていたはずだ。それを晒して大丈夫なのだろうか。がっかりする視線を向けられて、傷付かないだろうか。
「切ったって、急にどうして……」
「ジルが好きな色だって言ったから。こっちの方がよく見えるでしょ」
「半分隠れてたご尊顔が全開になったんで、ますますモテモテになりますよ、ミューア先生」
ジルの声を聞きつけたデリックは左右で色の異なる瞳には触れず、いつもの調子で笑っている。その言葉を真に受けたのかクレイグは首を傾げた。
「好きになった?」
「なってません」
「なら左目の色は?」
どこか不安を滲ませた顔が近づいてきた。金糸の覆いがなくなり、瞳の色がよく見える。体を暖めてくれる薪の色で、風雨から守ってくれる家の色。甘くておいしい、チョコレートの色でもある。義父と同じ瞳の色を、たとえ嘘でも嫌いとは言いたくない。
「……好きです」
「オレも、ジルが好きって言うこの目が好き」
負けた気がして絞り出すように答えれば、弱点だと認識してしまった嬉しさ全開の笑顔が現れた。顔の半分を覆っていた前髪がないため、攻撃力は昨日の二倍だ。喜びに溢れたやわらかな表情に、あざけりや無理やりといった気配はない。クレイグは劣等感を払拭したのだろうか。
――魔法石のお礼、できたのかな。
それなら質問に答えたかいがあった。この様子なら人の多いラドバンデルに出ても大丈夫だろう。安心したジルの口元に笑みが浮かんだそのとき、視界からクレイグが消えた。
「ほらエディ、時間がなくなるぞ」
「そうでした! 少し浴室をお借りします!」
応接室の出入口を塞いでいたクレイグは、デリックに首元を掴まれていた。いつもの不機嫌顔で乱暴に手を振り払うのが視界の端に見えた。
◇
土の聖堂で馬車を借り、川の下流に架けられた長い橋を渡る。可愛らしい秋の花が咲いた庭や、黄葉し始めた樹々が並ぶ住宅街を進んでいると、風景から徐々に緑が減っていった。
今では画一的に並んだ街路樹だけが目の保養だ。人々に忘れ去られたような木造の店。それらを追いやるように石造りの店が建ち並んでいる。目抜き通りであるここには高級店が多いようだ。
「マジか」
ひと際大きく立派な建物の前で、デリックは肩を落としていた。両扉にはめ込まれたガラスの内側には布が掛けられており、中は見えない。それだけでなく飾りの施された取っ手には無骨な鎖が巻かれ、頑丈そうな錠前がかけられていた。
建物には近づかず、馬車の前で待っていたクレイグが呆れたような息をはいた。
「不正の摘発があったんだから、やってるわけないだろ」
「デリック兄さんは、ガットア領で護衛に就いていましたから」
「それこそ呼ばれた経緯考えたら分かる」
大神官一行は、ローナンシェ領の最大都市であるラドバンデルに来ていた。土の神殿がある森で言っていたデリックの買いたい物とは、魔法石だったらしい。
魔宝飾店には、ジルの給金では到底買えない高級品しか置かれていない。そんな店の前に庶民の恰好をした二人がいても嘲笑されないのは、クレイグが傍にいるからだろう。
土の聖堂のお膝元で、土の大神官の容姿を知らない者はいない。煩雑な街で秋の陽射しよりも輝く金色の髪は衆目を集めていた。否、金髪だけなら見慣れているかもしれない。
――あの人もだ。
珍しいことなど一つもないといった様子で馬車から降りてきた貴婦人は、隣の時計店へと向かっていた。その途中で足が止まり、視線も止まった。頬を染めた貴婦人は、随伴の使用人が声を掛けるまでクレイグを見詰めていた。ちなみに遅れて土の大神官を見止めた使用人も、主人と同じ反応をしていた。
営業していない店の前にいても、往来の邪魔になるだけだ。クレイグを拝み始めた人の数がこれ以上増える前に移動しなくては。
「他に魔法石を売っているお店はないんですか?」
「ない。全部エルワース商会の息が掛かってたから」
ガットア領を商圏にしていたジャバラウ商会へ魔石を流していたのが、エルワース商会だ。ジルが魔素信仰者のアジトでみつけた帳簿がきっかけとなり、今は収監されているとラシードやウォーガンから説明を受けている。
「オレもエディに魔法石を渡したかったのに」
「えっ」
「残念だったね、デリック兄さん」
ふん、と楽しそうに鼻を鳴らしたクレイグは手を差し出した。どうしたのだろうと眺めていると、ジルを呼ぶようにその手が動く。
「次はオレの番」




