249 礼儀と寵愛
視点:セレナ
九ノ月十九日の夕刻。紺色の絨毯が優美な両扉へと伸びる玄関ホールで、セレナは水の大神官を待っていた。
ナリトは今朝、大神官の義務である祈祷をおこなうため、水の聖堂へと出かけて行った。毎月の祈祷は、聖女の力を支える大切な儀式だ。
生界のために尽くしている大神官を、それもお世話になっているシャハナ公爵家の当主を出迎えないわけにはいかない。それがたとえ、上辺だけの祈祷であったとしても礼儀は大切だ。
外では薄暮の前庭で魔石ランプが皓々と灯っている。噴水が煌めくさまは幻想的で絵画のようだけど、セレナはそれ以上の感想は抱かなかった。
宮殿の使用人はみな礼儀正しく、セレナが希望を伝えれば過不足なく対応してくれる。セレナ付きの侍女は訊けば答えてくれるし、ラシードも護衛として控えている。
昨日は、街の図書館で農園経営の書物を見つけた。三日前は、庭師から接ぎ木の技術を教えて貰った。一週間前は、医薬研究所でリンゴの効能を知った。どれもセレナの関心を惹くもので、とても勉強になった。
しかし、いまいち集中できないのだ。原因は分かっている。待ち人の姿は見えないかと、セレナは額縁のような窓枠に手をつきため息をついた。
「まだ帰って来ないのかな」
「少々遅れておりますね。ですが祈祷後はいつも早めにお休みになりますから、じきお戻りになるかと……ああ、ちょうど馬車が停まりましたよ」
セレナの傍にいた侍女は、水の大神官がセレナの待ち人だと思ったようだ。ナリトを出迎えるために玄関ホールまで来たのだから、間違ってはいない。訂正して角を立てる必要はないため、セレナは侍女に合わせて微笑んだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」
玄関の扉がひらくと同時に、居並ぶ使用人たちが声を揃えて宮殿の主を迎えた。セレナも倣って軽く頭を下げる。
「ただいま戻った。セレナ嬢も出迎えをありがとう。このまま夕食を共にしたいところだが、私は部屋で休ませて貰うよ」
「はい、」
「大神官でいらっしゃるナリトお兄様は、大切なお役目を果たされたのですもの。お体を労わるのは当然です」
セレナが労いの言葉を伝えようとしたところへ、レイチェルの声が割って入った。金色の双眸をうっとりと細め、ナリトの腕に手を添えている。先ほどまで玄関ホールにレイチェルの姿はなかった。それはつまり。
「レイチェル嬢も、短時間での往復は疲れただろう。今夜の食事は部屋に運ばせよう」
使用人の一人に目配せをしながら、ナリトは自身の腕に置かれた細い手をとった。さりげなく外されたレイチェルの手は今、ほんのりと染まった頬に移動している。
「ナリトお兄様のご苦労を思ったら、わたくし心配で馬車に飛び乗ってて。大神官の正装をお召しになった崇高なお姿を拝見したら、自然と祈りを捧げておりました」
宮殿にいたセレナへの牽制を終えたレイチェルは、恥ずかしいとばかりに目を伏せた。のも束の間、金色の瞳をさらに輝かせて藍墨色の長い髪を躍らせる。
「わたくし、お体にいい貴重な茶葉を持って参りましたの。明日は休息日でしょう? ナリトお兄様とご一緒にお茶を楽しみたいわ」
「申し訳ございません。明日は午後から政務の予定が」
玄関の扉を閉めてからこれまで壁になっていたユウリが動いた。しかしその足は、軽く上げられた主の手によって止められる。
「貴重な茶葉ということは、ローナンシェ領でしか流通していないのかな?」
「香草の栽培が難しくって、市場にも出ていない物だってお父様は仰っていたわ」
「それは楽しみだね。ユウリ、昼食は中庭でとるから調整を頼む。セレナ嬢も一緒にどうかな? 秋バラはまだつぼみだが、咲き揃ったダリアも見応えがあるよ」
ナリトの返事に喜んでいたレイチェルの視線は、途端に険しくなった。二人きりのお茶会を邪魔されたくないのだろう。
「お誘いありがとうございます。でも、明日も図書館にいる予定で……」
「ああ、それは何日あっても足りないね。閉架書庫にも入れるよう閲覧許可を出しておこう」
「シャハナ公共図書館は生界一の蔵書数ですものね。貴女は医薬を学びにいらしたのだから、存分に励みなさい」
セレナの答えに満足したのか、エヴァンス公爵家の令嬢はにっこりと唇の両端を上げた。セレナはレイチェルに遠慮したわけではない。顔を合わせる度に嫌味を言ってくるのは楽しいものではないけど、どれも見当違いであるため訂正したり、聞き流したりしていた。
誘いを断った理由は、ナリトが申し訳なさそうに少し眉尻を下げたからだ。これまで見てきた水の大神官なら、なめらかな微笑みを崩さずセレナを巻き込んだはずだ。
――どうしてかな。
周囲に誤解されたくないなら、レイチェルと二人きりになるのは避けたほうがいい。従者に扮したジルを護るために、当主の寵愛を受けているのは聖神官だけではないのだと、わざわざ二人を大公夫人の寝室に通したのだから。
◇
休息日の午後。観光名所にもなっているという美術館のような公共図書館から帰還したセレナは、侍女の言葉に耳を疑った。
「クラメル聖神官様のお荷物は、向かいの棟にございます客室へお運びいたしました。本日より大公夫人の寝室には、レイチェル・エヴァンス公爵令嬢がお入りになります」




